ニューメキシコ州都へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:20 UTC 版)
「サンタフェ (ニューメキシコ州)」の記事における「ニューメキシコ州都へ」の解説
1821年にアメリカ合衆国のウィリアム・ベックネルがサンタフェ・トレイルを開通させると、メキシコや合衆国、テキサス共和国からの人や物資がサンタフェに運ばれるようになり、平原のインディアンたちはインディアン奴隷やバッファローの毛皮など交易品をメキシコ人に売って馬と交換し、このサンタフェを起点に平原に馬を持ち込んだコマンチ族やスー族は、一大騎馬民族となっていった。また彼らのもとを脱走した馬は、野生馬ムスタングとなっていった。 「フロンティアのユダヤ人」も参照 1841年、テキサス共和国はサンタフェ・トレイルの支配権を確立すべく、オースティンから小軍隊と隊商を出発させた。サンタフェ出征として知られるこの遠征は準備不足が災いし、すぐにメキシコ軍に撃退された。1846年に米墨戦争が起こり、その2年後に終戦条件を定めたグアダルーペ・イダルゴ条約によりアメリカ合衆国は他のメキシコ領と共にこの一帯を正式に割譲され、これをニューメキシコ準州とした。 1851年には、ジャン・バティスト・ラミー大司教(Jean Baptiste Lamy)がサンタフェに到着し、聖フランシス大聖堂(Saint Francis Cathedral)の建設を始めた。1863年、南北戦争の最中に市は南部連合に短期間占拠されたものの、すぐにアメリカ合衆国(北軍)に奪還された。 1880年にはカンザス州アッチソン(Atchison)とサンタフェを結ぶアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道が開通した。鉄道の開通と電報の発明により、サンタフェとニューメキシコ準州は産業革命を迎えた。開通当初は、サンタフェは鉄道をさらに西進させるにあたって重要な拠点になる予定であった。しかし、ニューメキシコ準州内の建設が進むうちに、技術者たちはサンタフェを取り囲むサングレ・デ・クリスト山脈に鉄道を通すのは現実的ではないと判断し、市の南のラミーに駅を置き、そこを西進への拠点とした。しかし、アルバカーキまで、そしてさらに西へと鉄道が通じると、サンタフェの町は次第に寂れ、経済的な地位は低下していった。1912年、ニューメキシコ準州は連邦の47番目の州に昇格し、サンタフェはニューメキシコ州の州都となった。 サンタフェに初めて飛んだ航空機はライト兄弟の弟子であったローズ・デュガン(Rose Dugan)の操縦によるものであった。この飛行機にはプロイセンの貴族の家系の出であるヴェラ・フォン・ブルーメンタール(Vera von Blumenthal)が搭乗していた。この両名はプエブロ族の伝統的な炻器に着目し、1922年にプエブロ族の焼き物や宝飾品を展示即売するサンタフェ・インディアン・トレード・フェア(Santa Fe Indian Trade Fair)開催へとこぎつけた。両名のこうした活動により、プエブロ族の炻器は世界中に知れ渡るようになった。1926年には国道66号線が開通し、隆盛し始めた自動車交通がサンタフェを西海岸や中西部の都市と結んだ。1976年には、プエブロ・インディアンの文化交流のための「インディアン・プエブロ文化センター」が開設され、インディアン以外の観光客などにも彼らの行事が見学できるようになった。
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