ニューメキシコ州での活動
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「クリントン・プレスバ・アンダーソン」の記事における「ニューメキシコ州での活動」の解説
1918年に健康を回復して療養地を離れたアンダーソンは、アルバカーキ・ヘラルド紙の従業員に採用された。アンダーソンはニューメキシコ州サンタフェに派遣され、州議会の担当記者として働いた。州政の共和党支配に批判的であったアンダーソンは、一部の民主党議員と友好関係を築いた。アンダーソンはいくつかの法案立法に関して民主党議員とアイデアを交換し、その一部は実際に州法として成立した。アンダーソンは以後、民主党との生涯にわたる関係を構築した。 1919年にニューメキシコ州公衆衛生協会の事務局長に就任した。アンダーソンは結核治療活動のための資金獲得を図り、郡単位での保健衛生基盤を構築した。また公衆衛生省の設立にも貢献した。 1920年代初め、アンダーソンは独立して事業を興した。当初は新聞事業で活動したが、将来の見通しが悪いと判断し、1922年に保険会社ニューメキシコ・ローン・アンド・モーゲージ・カンパニーを新たに起業した。アンダーソンは企業買収を繰り返して事業を継続し、間もなく会社名をクリントン・P・アンダーソン・エージェンシーに変更した。1919年以降、アンダーソンは積極的にアルバカーキ市内のロータリークラブの活動に関与した。1930年、アンダーソンは国際ロータリーの委員に選任された。アンダーソンは政治的及び事業的なバックグラウンドをもとに、1932年に国際ロータリーの代表に就任した。 1928年にニューメキシコ州民主党代表となり、続いて1933年にニューメキシコ州財務官に任ぜられた。そして1934年以降ニューメキシコ州が関わる諸機関の責任者を歴任した。アンダーソンは新設機関ないし緊急事態に直面している機関へと加わり、円滑な運営を行えるよう改善指揮した。そして問題が解決したと判断すると、同様の問題を抱える機関へと移った。アンダーソンは1934年にニューメキシコ州歳入局長、1935年から1936年にかけてニューメキシコ州救済局長、1936年に連邦緊急救済局西部担当官、国民青年局ニューメキシコ州担当官、1936年から1938年にかけてニューメキシコ州失業保障局長を務めた。
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