ニセコ町長へ
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係長をしていた1988年、町長を目指すきっかけとなった黒澤明監督の『生きる』を見る。また同年、「まちで街路整備事業をやりたい」という町民が現れる。町役場とは無関係の自主的取り組みであったが、毎晩のように町民と話し合う生活がそれから6年間続く。情報公開と住民参加の原理の重要性を実感し、町長選挙に出ることを考える。1994年7月、北海道大学の大学院生であった田中秀征衆議院議員の話を聞く機会があり、田中の「僕は選挙弱いんだよね、勝った数より負けた数が多い」という言葉に強く背中を押され、8月にニセコ町役場を辞職。推薦団体はゼロ、支援した町議は一人だけであったが、同年10月16日に行われたニセコ町長選挙で現職の渡辺冨雄を僅差で破り初当選した。 1998年、情報公開条例を制定。同年10月、無投票で再選。2000年12月、全国で初めてとなる自治基本条例(まちづくり基本条例)を制定。 町長選挙を直前に控えた2002年9月17日、札幌市の市民グループから翌年の北海道知事選挙への出馬要請を受ける。この申し出を断り、10月に無投票で3選。 3選後の2002年12月20日に連合北海道から、12月27日には市民グループ8団体から、2003年1月22日には民主党から出馬を請われ、動向が注目されるところとなった。同年2月2日、知事選不出馬を正式に表明。2月12日、一連の騒動の責任をとるとして、議長に退職申出書を提出し、ニセコ町長職への辞意を表明する。逢坂は辞職の経緯を理解してもらうための説明会を開くが、会場から「撤回を求める署名を集めたい」との声が上がる。2月17日から21日まで署名活動が行われ、15歳以上の町民の77%にあたる3000人分の署名が届けられた。2月24日、町議会は全員協議会を開き、撤回を求める署名が集まったことなどを考慮し、退職の同意案件を臨時議会に提出しないことを決めた。2月26日、逢坂は議長と会談し、辞職を撤回すると伝えた。 2004年、内閣府が行った調査で、ニセコ町は参考にしたい自治体の1位となった。
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