辞職の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 04:40 UTC 版)
「ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)」の記事における「辞職の経緯」の解説
一方でヨーロッパ大陸ではプロイセンの疲労により戦況が好転しなかった。この影響で1760年後半になるとイギリス国内でも厭戦気分が高まった。 さらに1760年10月25日にジョージ2世が崩御し、その孫である22歳のジョージ3世が即位した。ジョージ3世は寵臣第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの影響で七年戦争の早期講和を望んでおり、勝利まで戦争続行を唱えるピットやその影響下のニューカッスル公を嫌い、ビュート伯爵を閣僚に抜擢して彼らを牽制した。またビュート伯爵はスコットランド貴族であり、上下院いずれにも議席も持っていなかったので、彼の大臣就任は議会議員を大臣に任命するという長年の慣行が破られた形であり、その点からも批判があった。 1761年8月にフランスとスペインが同盟を締結すると、ピットはスペインにも宣戦布告すべきことを訴えたが、国王とビュート伯爵はそれに反対した。首相ニューカッスル公も財政が持たないことと国民の厭戦気分が高まっている事を理由にスペインとの開戦には反対した。孤立したピットは1761年10月に辞職した。 この時のピットの怒りは激しく「2度と公人として働きたくない」と吐き捨てたという。しかしこの後もピットは庶民院への巨大な影響力を有し続けた。この後の5年に渡る政局混乱はピットの予測不能な行動によるところが大きかったといわれる。
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