ドネツィクの創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 23:27 UTC 版)
「ジョン・ヒューズ (実業家)」の記事における「ドネツィクの創設」の解説
1868年ミルウォール製鉄所はロシア帝国政府からバルト海のクロンシュタットに増設中だった海軍要塞の装甲板(plating)の注文を受けた。ヒューズは帝政ロシア政府からその地域に金属工場(metal works)を設立する許可を受け、1869年にはロシアの政治家セルゲイ・コチュベイ(ロシア語版)(宰相ヴィクトル・コチュベイの息子)からアゾフ海の北側に一片の土地を取得した。 ヒューズは資本を集めるために、「新ロシア会社」( 'New Russia Company Ltd.' )を設立し、1870年の夏55歳で、ロシア帝国に移住した。彼は8隻の船に金属工場の設立に必要なすべての機器のみならず、多くの熟練工(大部分が南ウェールズ(英語版)出身の製鉄工と鉱山技師で約100人の集団だった)までも積んで、航海した。 彼は直ちにカルミウス川畔のアレクサンドロフカ(ロシア語: Александровка)村付近の地点に金属工場の建設を開始した。最新式の工場は8つの高炉を備え、完全な生産サイクルの能力を有し、1872年、最初の銑鉄を製銑した。1870年代を通じて、炭鉱と鉄鉱石鉱山が採掘され、孤立した工場を自給自足可能な産業企業体へと発展させるために、煉瓦工場(英語版)その他の施設が設立された。彼は更に鉄道レール製造工場を建設した。ヒューズのすべての施設群は「Novorussian society for coal, iron and rails production」の下に所有された。ヒューズの工場は工場に寄り添って成長してきた住宅地に名前を与えた。そのユゾフカの町は急速に発展した。ヒューズは個人的に病院、学校、入浴施設、喫茶室、消防隊およびアングリカン教会(守護聖人聖ジョージ と 聖デビッドに捧げられる)を提供した。金属工場の周囲の土地は急速に発展し、地域の産業と文化の中心になった(ヒューズが創設した都市の人口は最盛期100万人を超えていた)。 続く20年以上にわたって、工場は繁栄し、発展した。当初はヒューズ本人の下で、そして1889年のヒューズ没後は4人の息子達の管理下で。驚くべきことに、ジョン・ヒューズは半文盲(semi-literate)だった。彼は文字が書けず、読めるのは大文字だけだった。
※この「ドネツィクの創設」の解説は、「ジョン・ヒューズ (実業家)」の解説の一部です。
「ドネツィクの創設」を含む「ジョン・ヒューズ (実業家)」の記事については、「ジョン・ヒューズ (実業家)」の概要を参照ください。
- ドネツィクの創設のページへのリンク