ドッジボールの普及活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 06:53 UTC 版)
ドッジボールという競技そのものは、可児徳と坪井玄道によって1909年(明治42年)に日本に伝えられていたが、当時のドッジボールは円形のコートで行い、防御側の選手はボールを取ってはいけないルールであった。これを方形のコートに変え、日本独自の球技へと進化させたのが道明の功績である。道明は遊戯を国家の盛衰、実力養成に対する基礎を築くという教育的価値を有するものと捉えており、ドッジボールにその価値があると考えたのであった。 道明は欧米留学中のドイツ・ベルリンの小学校で、たまたま方形のコートで子供たちが楽しそうにドッジボールを行っているのを見かけ、教育的価値を見い出した。方形のコートは1917年(大正6年)に道明が日本に伝えた。ベルリンの小学校では室内競技として行われていたが、道明は日本の国情には屋外の方が適していると考え、屋外競技に変更した。また事あるごとに講習会や実地授業などの場でドッジボールを指導し、普及に努めた。さらに2度目の欧米外遊の際にドッジボールの更なる研究を行い、日本に帰国後、自身が会長を務める東京府体育研究会で1年4か月かけて議論を重ね、1924年(大正13年)に「デッドボール競技規定」を制定、防御側の選手がボールを受け取ることができるルールに改良した。こうしてドッジボールは「日本独自の球技」となり、この意味ではドッジボールの考案者は永井道明ということになる。 道明がドッジボールを伝えた頃には一般に「デッドボール」という名前で呼ばれており、これをドッジボールに変えた(伝わった当時の名に戻した)のは大谷武一である。道明は「デッドボール」という名称にこだわりがあり、ドッジボールに変えられたことを「軽率だ」と批判している。その理由として、これまでにデッドボールとして発展し広く行われてきたこと、ドッジボールのドッジ(dodge)が「身をかわす」という意味でありボールを受け取ったり、外野からコートに復活できるなどルールが複雑化して身をかわす(ドッジ)以上の競技になった現状ではボールに当たってアウト(=デッド)となるという意味のデッドボールの方が適していること、を挙げている。デッドボールをドッジボールに改名されたことに道明が反発したのは考案者であることから当然であり、反発するほどに道明はこの競技に並々ならぬ思いを持っていたことが窺える。大谷がなぜドッジボールに改名したのかは不明であるが、一説にデッド(dead=死)という語から来る忌避感、現代風に言えば言葉狩りであるという。
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