トリーアとナッサウ(1335年 - 1794年)
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「バート・カムベルク」の記事における「トリーアとナッサウ(1335年 - 1794年)」の解説
エプシュタインは1508年にケーニヒシュタイン伯領となった。1535年にケーニヒシュタイン伯家が断絶した後、トリーア選帝侯がカムベルクを占領し、街の半分を長らく保持した。これにより権力関係は確固とした安定を得た。カムベルクは、1800年頃まで半分ずつがトリーア選帝侯とナッサウ家に属した。ナッサウ家所有部分は分家の間で何度も所有が入れ替わった。1557年のフランクフルト条約でヘッセン領の街区が最終的にナッサウ=ディレンブルク家の所有であると認定された。1607年から1628年まで、その前後はディレンブルク領であった街区は、ナッサウ=ハーダマル家に属した。ディレンブルク家の半分は1652年にナッサウ=ディーツ家(ドイツ語版)の、1743年にオラニエ=ナッサウ家の所領となった。 近世初期にカムベルクは主に農民都市の性格を帯びていた。1404年に2人の市長が、1458年に市議会が、1481年に市庁舎が初めて記述された。1720年頃に市庁舎は老朽化していた。新築が計画されたが、建設されなかった。おそらく17世紀にはすでに領主の役人が市長の業務の大部分を引き継ぎ、都市の自治は失われていた。遅くとも1454年から市議会が存在していたが、地域的にわずかに重要であるという範囲を超えるものではなかった。市内では羊毛加工業や製陶業がやや大きな規模で営まれていた。一時的には2軒の縮絨工場が存在していた。1581年には7つのツンフトが街にあった。企業は、それぞれの規模が小さいためツンフトに多くの産業が統合されていた。 頑丈な壁と多くの塔を持つ都市防衛施設は、18世紀初めまで維持されていたが、1660年に完全に崩壊した部分があるという記録もある。1750年までにこの施設は大部分が老朽化し、軍事的機能を果たせなくなっていた。 1535年から1794年までアムト・カムベルクは、ナッサウ家とトリーア選帝侯の共同統治下にあった。現在の市区の他に、ハインチェンや後のアイゼンバッハ、さらにはハッセルバッハもこれに含まれていた。1人のアムトマン(役人)が、両領主のためにカムベルクの利害調整を行っていた。ナッサウ家の様々な分家の間で領主が頻繁に入れ替わったため、トリーア選帝侯のアムトマンが重要なポジションを強固にした。彼らはさらに、現在市の行政庁舎となっているアムトホーフというこの街の圧倒的な建築複合体を有していた。トリーア選帝侯のアムトの地位は、主にハイデン家、ホーエンフェルト家、シュッツ=ホルツハウゼン家といった、古くから続く貴族家の手に委ねられていた。1651年には、アムト・リムブルクとアムト・フィルマーも、カムベルクから行政運営されていたことが証明されている。1625年にこの街の教師が初めて記録されている。 カムベルクの人口に関する最初の記録は1632年になされたもので、80人と記されている。1700年には、98世帯、104人の賦役労働者、5人の寡婦が記述されている。1790年に初めて総人口1,003人が記録された。1788年には、市民の70.2 % が土地所有者、26.2 % が貴族、3.6 % が聖職者であった。 ユダヤ系住民は1576年に初めて確かに証明されている。1662年には5家族のユダヤ人がおり、人口の 32 % を占めた。遅くとも1756年にはシナゴーグが存在していた。
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