トクタミシュのジョチ・ウルス再統一
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「バトゥ・ウルス」の記事における「トクタミシュのジョチ・ウルス再統一」の解説
ベルディ・ベクの没後、混迷を極めるジョチ・ウルス再統一の端緒を開いたのは左翼トカ・テムル家に属するオロス・ハンであった。オロス・ハンはバトゥ・ウルス同様に分裂状態にあった左翼オルダ・ウルスを再統一し、西方バトゥ・ウルスへの遠征を始めた。イブン・ハルドゥーンの記述によると、ヒジュラ暦776年(1374年/1375年)にハジ・タルハン地方の領主チェルケス・ベグがママイからサライを奪い、更にシバン家のイル・ベグがチェルケス・ベグからサライの領有権を奪った。ところが、イル・ベグは間もなく亡くなり息子のカガン・ベグに代替わりしたため、これを好機と見たオロス・ハンは自ら軍を率いてカガン・ベグを破りサライを占領した。これに対してシバン家のアラブシャーは一時的にオロス・ハンからサライを取り戻したようだが、ロシア語史料の『ニコン年代記』によると1377年にオロス・ハンはアラブシャーを破り、アラブシャーはママイ・オルダに亡命したという。 このようにオロス・ハンはオルダ・ウルスとバトゥ・ウルス東半の統一に成功したが、バトゥ・ウルスの西半(ママイ・オルダ)の平定を果たせないままに没落することになった。左翼オルダ・ウルスでは同じくトカ・テムル家出身のトクタミシュが当時中央アジアで急速に勢力を拡大しつつあったティムールの支援を受け、数度にわたる激戦の末にトクタミシュはオロスを破った。オロスの死後、遠縁のテムル・ベクが跡を継いだ。テムル・ベクはオロスの時代から活躍する一級指揮官であったが酒に溺れ朝遅くまで目覚めないという自堕落な面があり、シャーミー『勝利の書』はテムル・ベクが戦う前から人心を失い、左翼の人々はトクタミシュの勝利を望んでいたと伝えているが、数度の戦いを経てトクタミシュは遂にテムル・ベクを破り、1378年/1379年にスグナクで即位し、オルダ・ウルスを平定することに成功した。 1380年にはクリミア方面を支配するママイがクリコヴォの戦いにてモスクワ大公国に敗戦を喫し、これを好機と見たトクタミシュは西方に出兵してカルカ河畔の戦いでママイを破り、同年にはママイの勢力(バトゥ・ウルス=青帳)を併合してベルディ・ベク以来20年ぶりにジョチ・ウルスの再統一を果たした。この左翼ウルスによる右翼ウルス平定について、ティムール朝で編纂された『ザファル・ナーマ』は「トクタミシュ・ハンは……サライの国とママク(ママイ)の国を征服した」と記している。トクタミシュはクリコヴォの戦いで勝利したモスクワ大公国をモスクワ包囲戦にて屈服させ、ルーシ諸国の隷属体制も復活させた。トクタミシュがジョチ・ウルスの右翼/左翼統一を達成したことを、『チンギズ・ナーマ』は「彼は右手と左手の慣行を廃止した」と表現している。 しかし、ジョチ・ウルスを再統一して自信を深めたトクタミシュは自らを支援してきたティムールに頼る立場に不満を抱き、1386年にはティムールの勢力圏であるアゼルバイジャン地方に進出した。トクタミシュがティムールを裏切った理由として、『勝利の書』はコンギラト部のアリー・ベク、シリン部のオルク・テムル、バアリン部のアク・ブガらといった武将たちがティムールと友好関係を築くことを進言してきたが、右翼平定後にトクタミシュに仕えるようになったマングト部の者たちがティムールを裏切るよう唆したことが主因と記している。コンギラト部族は代々左翼=オルダ・ウルスで有力だった部族であり、トクタミシュが左翼/右翼の統一を成し遂げ、政権の権力構造が大きく変化した(従来の左翼系勢力が相対的に影響力を落とし、右翼系マングト部が台頭した)ことがトクタミシュ-ティムール戦争の大きな一因となったとみられる。更に3年後の1387年、トクタミシュはホラズム地方のスーフィー朝などを巻き込んでティムール朝の本拠地マー・ワラー・アンナフルへの侵攻を開始した。 当時、ムザッファル朝に遠征中だったティムールは急いで和睦を結んで中央アジアに「大返し」し、1391年にはコンドゥルチャ川の戦い(英語版)でトクタミシュ軍を破った。しかし、中央アジア侵攻には失敗したもののトクタミシュの勢力は未だ健在で、1394年には再びカフカース山脈を越えてアゼルバイジャン地方に進出しようとした。これを迎え撃ったティムール軍はテレク河畔の戦い(英語版)で大勝を収め、勝勢に乗ってキプチャク草原に進出したティムール軍によってサライを始めジョチ・ウルスの諸都市は徹底的に破壊された。ティムールによる破壊と略奪、トクタミシュによる再統一の瓦解はジョチ・ウルスの弱体化に決定的な影響を与えたと評されている。こうしてトクタミシュによるジョチ・ウルスの再統一運動はティムールによって頓挫してしまい、以後ジョチ・ウルス全体を支配する政権は現れなくなってしまう。
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