ディストン土地買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/02 08:31 UTC 版)
「ハミルトン・ディストン」の記事における「ディストン土地買収」の解説
1840年代と1850年代、まだ人があまり住んでいなかったフロリダ州は、大半が湿地である約1,500万エーカー (61,000 km2) の土地を所有するようになった。そこは連邦政府から州に払い下げられたものであり、運河と堤防を建設することで水面下にある土地を開拓することを目指していた。フロリダ州では、鉄道というインフラを建設し、湿地を開拓する目的で統合された助成金が、フロリダ州内国改良基金と呼ばれる信託に与えられていた。この信託基金はフロリダ州知事と州の役人4人によって管理されていた。基金は鉄道会社に土地を出して、その土地を担保に鉄道会社に債券を発行させ、それを保証した。南北戦争とその後のレコンストラクションによって、鉄道会社は費用が高くついたために債務の履行ができず、基金は債務超過となって急速に負債を増やし、最終的にアメリカ合衆国裁判所が管財人になることとなった。州知事ジョージ・フランクリン・ドルーが就任した1877年までに、基金は100万ドルの負債を抱えていた。州憲法はそれを支払うための債券発行を禁じていた。投資家は鉄道が建設されず、発展が止まったままのフロリダ州に興味を示さなかった。 1877年、外交官ヘンリー・シェルトン・サンフォードが、スポーツフィッシングが好きなディストンを、フロリダ州の釣りの旅行に誘った。その旅の間に、ディストンはフロリダのオキーチョビー湖から排水するために運河を使うことで、広大な土地が農業用に開拓できる可能性を認識した。 フロリダ州内国改良基金とその土地への担保権執行は1880年に連邦裁判所に申請された。サンフォードやアレクサンダー・セントクレア=アブラムズなど様々な可能性のある投資家の間で、負債を帳消しにする交渉が行われたが、成果は得られなかった。一方、ディストンと5人の仲間が1881年1月にフロリダ州内国改良基金と土地開拓契約を結んだ。この契約で、ディストンとその仲間が、オキーチョビー湖、キシミー川、カルーサハッチー川、マイアミ川の周辺で、アトランティック・アンド・ガルフコースト・キャナル・アンド・オキーチョビー土地会社が開拓した土地の半分を譲渡されることになっていた。アメリカ合衆国下院議員でディストン家の友人であるウィリアム・D・"ピッグアイアン"・ケリーが、ディストンの最初の契約について、「彼は幅広い予備調査を始め、それから満足いく報告を得た。提案された全分野を調査し、ナポレオンの本能と洞察力を持って、王国よりも広い土地の開拓によって母国の福祉を促進する機会を見ていた」と述べていた。 ディストンはその干拓契約で1,200万エーカー (49,000 km²) までの土地を得られることになっていたが、それには数多い不法占拠者を追い出す必要があった。フロリダ州の1842年武装占有法は、土地のセミノール族インディアンを追い出すために不法占拠者にも土地の使用を認めていたが、ディストンの契約では、ディストンが水面下にあることを示せた土地から不法占拠者を追い出せることになっていた。しかし、干拓契約はフロリダ州内国改良基金が負っている大量の負債に影響しなかったので危険な状態だった。裁判所はその負債に関連して契約を頓挫させるという脅しを掛けてきたので、ウィリアム・D・ブロクサム州知事がフィラデルフィアのディストンの元を訪れ、負債を救済してくれるよう説得を行った。この訪問の間に、ディストンは暫定的にフロリダ州内国改良基金の土地400万エーカー (16,000 km²) を1エーカー当たり25セントで買うことに合意し、本契約は1881年6月1日に結ばれた。ディストンはその契約に6月1日に署名し、「ニューヨーク・タイムズ」はその取引について、「単一の個人がなした世界最大の土地買収とされるもの」と表現した。それによって、ディストンはアメリカ合衆国最大の土地所有者になった。1881年12月17日、ディストンはその土地の中の200万エーカー (8,000 km²) を、イギリスの庶民院議員エドワード・ジェームス・リード卿に、60万ドルで売却した。
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