ディストン・シティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/02 08:31 UTC 版)
「ハミルトン・ディストン」の記事における「ディストン・シティ」の解説
ディストンの計画には、浚渫に加えて、タンパベイ地域に新興のタンパ市と競えるような都市の創設も含まれていた。1884年までに、彼が創った土地会社4社の1つであるレイク・バトラー・ビラ会社を設立していた。ディストンはターポンスプリングスの町を設立し、その町の多くは商業用桟橋やホテル2軒など、アトランティックシティの自社製材所から取り寄せた材木を使い、レイク・バトラー・ビラ会社が建設した。ターポンスプリングスは期待していたような大都市にはならないと判断すると、その動きを南に移してディストン・シティと呼ぶ町を設立した。蒸気船に大きな投資を行い、桟橋、学校、地域では初のホテルを建設した。1885年、メリーランド州の医者がその地域は世界でも最も健康に良いと宣言すると、F・A・デイビスなど多くの投資家や開発業者を惹きつけた。デイビスはディストンの弟のジェイコブと組んで、ピネラス半島を開発し、そこにピネラス郡が創られた。 1880年代半ば、ロシア出身の開発業者ピーター・ディーメンスがフロリダ州中央部を通るオレンジベルト鉄道を建設しており、計画の西端はタンパベイ地域にあった。1886年12月1日、ディストンはディーメンスに約6万エーカー (240 km²) の土地を提供し、その鉄道をディストン・シティまで延伸してくれるよう依頼した。ディーメンスはさらに5万エーカー (200 km²) を追加してくれるよう要求したが、ディストンは、単に鉄道が地域の近くに来てくれるだけでディストン・シティが繁栄すると誤った判断をし、その要求を拒んだ。ディーメンスはその鉄道建設をセントピーターズバーグで止め、ロシアの故郷であるサンクトペテルブルクからその名前を付けた。ディストン・シティはディストンが予測したようにはならず、ガルフポートという小さな都市になったのに対し、セントピーターズバーグはディーメンスの鉄道のお蔭でフロリダ州でも最大級の都市になった。
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