テラスの建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 02:42 UTC 版)
「カールトン・ハウス・テラス」の記事における「テラスの建設」の解説
カールトン・ハウス解体後、その敷地の再開発はもともと、セント・ジェームズ・パークの改修計画の一部にすることが企図されていた。これに対してジョン・ナッシュは、公園の南側に沿った3棟とバランスを取って、バード・ケージ・ウォーク を見下ろす北側に沿った3棟のテラス (集合住宅) を提案した。実際には南側にはテラスは建設されず北側に2棟だけ建てられ、それぞれカールトン・ハウス・テラスの西棟 (No.1-9) 、東棟 (No.10-18) となった 。この2棟はナッシュが設計し、ジェームズ・ペネトーン (英語版) が建設を担当した。ナッシュは2つのブロックをカールトン・ハウスのポルティコの古い柱を再利用して、大きなドーム型の噴水でつなぐことを計画していたが、ジョージ4世により拒否された :3 。今日噴水の場所には「ヨーク公の階段」がある。また1834年、階段の上にヨーク公記念柱 (英語版) が建てられた。これはリチャード・ウェストマコット (英語版) の手によるヨーク公の像を先端に乗せた、ベンジャミン・ワイアット (英語版) 設計の花崗岩の柱である :240 。 テラスは地上4階建てで古典的なスタイルをしており、化粧しっくい塗りでセント・ジェームズ・パークを見下ろすコリント式柱のファサードを持ち、精巧な装飾が施されたフリーズとペディメントを備えている。テラスの南側は公園に面していて、正面の下部には低い一連のドーリア式柱があり、堅牢なバルコニーを支えている :3 。この邸宅は後ろに「ミューズ」 を持たない点が、ロンドンの高級な住宅の中で珍しい。その理由はナッシュが、公園の景観を邸宅のために最大限に利用し、また、公園に邸宅の魅力的なファサードを提示したいと考えたからである。宿泊施設は、バルコニーの下と地下2階に設けられた 。 建築史家のジョン・サマーソン (英語版) によると、ジョン・ナッシュのデザインはパリのコンコルド広場にあるアンジュ=ジャック・ガブリエルの建物に触発されている。サマーソンからは、テラスへの賞賛の言葉は聞かれない。 中央のペディメントは、あまりにも長いファサードが垂れ下がっているように見えることを防止するための苦肉の策で、パビリオンの上の屋根裏部屋は過度に強調されすぎるかもしれない。造形の機微といったものは見られない。実際のところカールトン・ハウス・テラスは完全に、それをデザインした素晴らしい老人の代表作であるが、彼のこの建設への貢献はおそらく、彼のリージェント・ストリートの大邸宅にある輝かしいギャラリーの中か、ワイト島の彼の城 (イースト・カウズ城 (英語版)) の花が香る高級感の中のいずれかで描かれた、わずかな小さなスケッチの提供だけである :3 。 一方、サーベイ・オブ・ロンドン の著者達は、好意的な立場を取っている。 邸宅はヨーク公記念柱の両側に、2つのグループを形成している。公園に面している建築主体として設計された邸宅は、コリント式柱の範囲を広げたことに代表される、包括的街路建築の素晴らしい事例である。その新鮮なファサードにより大幅に強化された効果。それぞれのブロックの端の邸宅は、メインファサードの上に置かれ、その結果パビリオンの配置の処理に成功している。階段に面している邸宅の正面も、相補的な方法で効果的に扱われている 。 ナッシュは建設の監督をジェームズ・ペネトーン (英語版) に任せたが、自分の領域は自身の手で固く守った。王室に支払う賃借料は、間口1フィート当たり4ギニーと高額に設定されていた。ナッシュ自身はNo.11から15の5区画をリースしており、オープンマーケットでかなりの利益を得ようとしていた。結局彼は全てのコストをまかなうことができず、この取引でわずかな損失を生じさせた :3 。
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