テケリ蜂起の失敗以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 14:39 UTC 版)
「ラーコーツィ・フェレンツ2世」の記事における「テケリ蜂起の失敗以後」の解説
1682年に母はハンガリーの大貴族テケリ・イムレと再婚した。テケリは継息子ラーコーツィの教育にほとんど関心を抱かなかったが、それは彼がハプスブルク帝国に対して起こした大規模な反乱の指導者として多忙なためだった。 しかし、1683年に第二次ウィーン包囲でオスマン帝国がハプスブルク軍に敗退すると、オスマン帝国の支援で上部ハンガリー(現在のスロバキア)の王となろうというテケリの目論見は挫折した。テケリは保全を求めて一時レオポルト1世と交渉したことがオスマン帝国に忠誠心を疑われ、忠誠心を示すため幼いラーコーツィを人質としてイスタンブールに送ると約束したが、息子を手放したくないイロナの反対でこの約束は反故にされた。その後テケリはオスマン帝国に協力して大トルコ戦争でハプスブルク家の遠征軍と戦ったが、帝国と共に劣勢になり没落した。 1686年、皇帝軍の司令官の1人アントニオ・カラファ将軍(hu)はムンカーチ城を包囲した。イロナは3年間城を守ったが、1689年に降伏した。ラーコーツィと姉ユリアナは再び皇帝レオポルト1世の後見下におかれ、母親と共にウィーンに連れてこられた。一家は財産を取り戻すことが出来たが、皇帝の許可なしにはウィーンを離れることは禁じられた。 ラーコーツィが17歳になると、皇帝は一家の財産の管理権を母からラーコーツィに移した。ユリアナは宮廷に仕える裕福なベルギー人貴族フェルディナン・ゴベール・ダスプルモン=リンデン伯爵と結婚した後、弟のために様々な便宜を図ろうと務めた。ラーコーツィは姉夫婦と暮らしていたが、1694年9月、ドイツ諸侯のヘッセン=ヴァンフリート方伯カール(de)の娘シャルロッテ・アマーリエと結婚すると同時に独立した。ラーコーツィはシャーロシュパタクの一家の居城で新婚生活を送り、自分の領地・財産を管理するようになった。 1699年1月28日、カルロヴィッツ条約が結ばれると同時に、継父テケリと母は亡命を余儀なくされた。ラーコーツィは皇帝の監督下におかれウィーンに残った。広範な反ハプスブルク感情を頼みとして、テケリの率いていた農民軍の残党はトカイ=ヘジャリャ地方(現在のハンガリー北東部、ラーコーツィ家の所領の一部)で反乱を起こした。反乱軍はトカイ、シャーロシュパタク、シャートラリャウージヘイのラーコーツィの持ち城を占拠し、ラーコーツィに指導者となってくれるよう頼んだが、ラーコーツィは小規模な農民一揆と大差ない反乱の首謀者にされるのを嫌がり、ウィーンに戻って反乱との関わり否定し、身の潔白を証明した。 やがて、ラーコーツィは自分の所領の隣合うウングヴァール(現在のウクライナ領ウージュホロド)を所有するベルチェーニ・ミクローシュ伯爵(hu)と友人になった。ベルチェーニはハンガリー王国で3番目に裕福な貴族で、非常に高い教養を積んだ人物であり、ハンガリー上級貴族の多くと親戚関係にある有力者だった。ベルチェーニはハプスブルク絶対主義に支配されつつあるハンガリーを憂えており、上級貴族を中心としたハンガリーの政治主権の回復を望んでいた。ラーコーツィはベルチェーニの考えに感化され、ハンガリー独立のために戦ってきた一族の伝統を受け継ぐべきだと思うようになった。
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