テキサスのインディアン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 15:22 UTC 版)
「テキサスのインディアン戦争」の記事における「テキサスのインディアン」の解説
詳細は「コマンチェ」を参照 これまで現在テキサス州となっている所に住んだ平原インディアン部族の中でもコマンチェ族が最も良く知られているが、コマンチェ族はこの地域に到着したことでは最も遅い者達だった。その同盟者であるカイオワ族とカイオワ・アパッチ族が現在のテキサス州西部に住んでおり、トンカワ族、デラウェア族、カド族、ウィチタ族およびチェロキー族が東部に住んでいた。1650年頃まで、コマンチェ族はワイオミングのプラット川上流に住むショショーニ族の一部だった。コマンチェ族は1650年頃にはっきり区別できる集団として現れたが、これは馬を手に入れた時期と一致し、それでより良い狩猟場を求めるために大きな移動性を獲得できた。 ショショーニ族として移住生活をしていたことで、コマンチェ族は南の平原に現れ、そこからは南のアーカンザス川からテキサス中央部に広がる広大な地域に移動した。この期間、3つの理由で人口が劇的に増加した。1つは頼れる食料資源としてバッファローが多量にいたこと、2つめはショショーニ族の移住者が流入したこと、3つめはライバルの集団から多くの女性や子供を捕獲して仲間に入れたことだった。コマンチェ族は決して単一の結合力のある部族集団を形成することは無かったが、1ダースほどの自治的集団に別れ、その12の隊(バンド)の中に45ほどのはっきりとした支族があった。これらの集団は同じ言語を話し同じ文化を持っていたが、共同作業を行うのと同じくらい頻繁に仲間内で戦うこともあった可能性がある。 1750年以前、テキサスで支配的な先住民部族はアパッチ族だった。しかし、コマンチェ族の征服でこれが変わった。1740年代からコマンチェ族がアーカンザス川を渉り始め、リャノ・エスタカード(スペイン語で「柵で囲まれた平野」)の領域内に地歩を固めた。この地域はオクラホマ南西部からテキサス州の回廊地帯を横切り、ニューメキシコまで広がっている。アパッチ族は一連の戦争の結果として駆逐され、コマンチェ族が地域全体を支配して、コマンチェリアと呼ばれるようになった 。この支配地はアーカンザス川から南にテキサス中央部を横切り、サンアントニオ近くまで広がり、エドワーズ台地全体の西はペコス川までと北はロッキー山脈の麓にそってアーカンザス川に至るまでを含んでいた。 アパッチ族を追い出した後、コマンチェ族は1780年から1781年まで天然痘の流行に襲われた。この流行は大変厳しいものだったので、一時的に襲撃を中断し、幾つかの支族は解隊された。1816年から1817年の冬に2回目の天然痘流行が起こった。推計に拠ると、コマンチェ族人口の半分以上がこれらの流行で殺された。 1人のカイオワ族戦士が1790年の秋をコマンチェ族と過ごした後で、コマンチェ族は実質的にカイオワ族とカイオワ・アパッチ族と統合した。この1つの事件から3つの部族は実質的統合を果たした。歴史家のフェーレンバッハはこの統合がアメリカ人開拓者の侵入から彼らの猟場を守る必要性から起こったと考えた。まず、カイオワ族とコマンチェ族が猟場を分け合い戦争のときは統合することで合意した。カイオワ・アパッチ族はカイオワ族の同盟者であり、結果的にその同盟に加わった。最終的に3部族は同じ猟場を分け合い、互いに自己防衛に当たることと戦争の時の同盟に合意した。
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