ネチェズの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 15:22 UTC 版)
「テキサスのインディアン戦争」の記事における「ネチェズの戦い」の解説
1839年7月12日、テキサス民兵隊はインディアン移住を交渉するための和平使節を派遣した。チェロキー族はその穀物から得られる利益と移住の費用を補償する移住条約への署名に躊躇した。その後の48時間で、チェロキー族は平和的にそこを離れるが、武装した護衛兵の監視下にテキサスから出て行くことを要求する条約の1節の故に条約には署名できないと主張した。7月15日、民兵隊の命令下で、調停委員はテキサス人が即座にインディアンの集落に行軍してくるので、平和的に去ろうという者は白旗を揚げるべきことを告げた。7月15日と16日、K・H・ダグラス将軍、エド・バールソン、アルバート・ジョンストン、およびデイビッド・G・バーネットが指揮する複合民兵隊が、ボウルズ酋長指揮下のチェロキー族、デラウェア族およびショーニー族を攻撃した(ネチェズの戦い)。 インディアンは集落で抵抗しようとし、それが失敗した時、隊形を取り直そうとしたがそれも失敗した。およそ100人のインディアンが殺され、民兵隊の損害はわずか3人だった。ボウルズ酋長は殺されるときにヒューストンから貰った刀を持っていた。この戦闘後、チェロキー族はアーカンソー州に逃亡し、テキサス東部には実質上組織された先住民族の社会が無くなり、その土地はイギリス系開拓者に渡された。
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