ツェリェ伯家の躍進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 14:51 UTC 版)
「ヘルマン2世 (ツェリェ伯)」の記事における「ツェリェ伯家の躍進」の解説
1396年、ブルガリアの町ニコポリス(現;ニコポル)で行われたオスマン帝国との戦い(ニコポリスの戦い)に、ヘルマン2世は欧州連合軍側で参加していた。しかし欧州連合軍は大敗し、ヘルマン2世はジギスムントの命を救った。二人は同じ漁船で戦場を脱出し、ハンガリーに戻るまでの間ともにいた。シギスムンドは、1397年に褒賞としてヴァラジュディンをヘルマン2世に与え、1399年にはクロアチア王国と神聖ローマ帝国の国境に沿ったザゴリエの領土を与えた。これらの領土は遺伝的継承が認められてツェリェ伯はスラヴォニア(現在の領域とは差異がある)最大の領主となり、以来ツェリェ伯は「ツェリェとザゴリエの伯」の形式で領土を支配した。 ヘルマン2世によるジギスムントへの支援は、ジギスムントに反抗的な家臣の導きでナポリ王ラディズラーオ1世がクロアチアとハンガリーの王位を主張してさえいたハンガリー内戦の間も続いていた。反乱軍は1401年にシギスムンドを捕らえて投獄することに成功するが、ヘルマン2世とハンガリー貴族ガライ家のニコラス2世は共謀し、ヘルマン2世がハンガリー侵攻の脅しをかけることで、同年後半にジギスムントの釈放を成功させた。その後、ガライ家とツェリェ伯家の関係は緊密になった。ジギスムントは釈放された際にヘルマン2世のような外国人をハンガリー行政から排除することを約束したが、約束を果たすことはなかった。 1402年には姪のアンナがポーランド王ヴワディスワフ2世と結婚し、ツェリェ伯家はポーランド王家ともつながりを持つようになった。 1405年、ジギスムントはヘルマン2世の末娘バルバラと結婚し、スラヴォニアの広大な領土をヘルマン2世に与えた。ヘルマンのもう一人の娘であるアンはニコラス2世と結婚して3者の結びつきを強化した。1406年、ジギスムントはヘルマン2世を「ダルマチアとクロアチアのバン」と「スラヴォニアのバン」に任命した。ヘルマン2世はこれらの役職を1408年までと1423年から1435年まで有し、さらにドイツ生まれのザグレブ司教エベルハルトの献身的な支援の恩恵を受けた。これらによって、ツェリェ伯家はクロアチア王国で最も強大な勢力となった。ヘルマン2世は、1408年に設立されたドラゴン騎士団の初期の団員の1人でもあった。一方で、宗教的理由ではなく経済的理由からではあるものの、ヘルマン2世はすべてのユダヤ人をツェリェ伯領から追放もしている。 ケルンテンからカルニオラにかけてを支配していたオルテンブルク伯フリードリヒ3世が1418年に亡くなると、オルテンブルク伯領は女系子孫であるヘルマン2世が継承した。以来ツェリェ伯家はケルンテンの4分の3を支配する。これによって、ツェリェ伯家の長年の目標であった帝国特権(Reichsfreiheit/Reichsunmittelbarkeit)の条件達成は容易になった。ヘルマン2世の息子ヘルマン3世とバイエルン公エルンストの娘ベアトリクスとの結婚は、ハプスブルク家に対抗しうる強力な同盟相手をもたらした。帝国特権の獲得は、ハプスブルク家の内オーストリア公エルンストがツェリェ伯家の封建的覇権を放棄した1423年に達成された。これは、不満を持ったクロアチア貴族に対するヘルマン2世の交渉の成功に対して、1411年以来ローマ王でもあったジギスムントが与えた報酬であった。帝国特権は、さまざまな鉱山からの通行料と収入を集める権利などの他に、鋳造の権利を伴っていた。バルバラの婚姻によって帝室と密接な関係にあるヘルマン2世は、帝国諸侯になるという新たな目標に集中することができた。ヘルマン2世は1430年に帝国諸侯になる寸前まで行ったが、おそらくハプスブルク家の反対によって失敗に終わったようである。
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