チェロキー国家対ジョージア州法廷戦
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「ジョージア州」の記事における「チェロキー国家対ジョージア州法廷戦」の解説
19世紀初頭、アメリカ連邦政府は同州のチェロキー族と結んだ条約のなかで、彼らに近代化に取り組むよう強制し、チェロキー族もこれに応えた。チェロキー族は読み書きの習得から始めて部族政府や部族法廷まで設立し、近代国家としての社会整備を進め、同州で「文明開化部族」と呼ばれるまでになっていった。しかし、州の中にもう一つ政府が存在するような状況は、入植を進めるジョージア州政府にとって承服できないものだった。さらに州下で金鉱が発見されたことで、チェロキー族の領土の剥奪は至急の課題となった。 1828年12月20日、ジョージア州はチェロキー族を同州から追い出すために、彼らの国家主権を剥奪し、保留地を没収し、年金の支給を打ち切るという法案を可決した。同地のチェロキー族の先駆者であり、実力者のグウィスグウィ(ジョン・ロス)大酋長は、これに対して、ジョージア州の法案の無効確認を求めて大統領アンドリュー・ジャクソンに直訴した。ワシントン連邦政府では、白人上下院議員の数人がこれを支援した。 しかし、ジャクソン大統領はもとよりインディアンを絶滅させたがっていた人物であるので、連邦政府とチェロキー族とで結んだ条約規定に対する大統領責任を放棄し、ジョージア州の法案を支持した。さらに1830年5月に「インディアン移住法」を制定することで、チェロキー族のミシシッピー川の西側への強制移住そのものを合法化してしまった。 1830年6月、ロス酋長はこれに対し、「主権国家であるチェロキー族を滅ぼすつもりであるのか」として、ウィリアム・ワートを弁護人に立て、この問題を連邦最高裁判所に提訴した。「チェロキー国家対ジョージア州法廷戦」(Cherokee Nation v. Georgia)と呼ばれる、インディアン部族の主権を巡っての部族と合衆国の初の法廷戦に持ち込んだ。弁護人のワートは、チェロキー族と連邦政府の結んだ条約が保証している「主権国家」としての権限を盾に、州政府の法案無効を訴えた。 この訴えにジョン・マーシャル判事の下した裁定は、「チェロキー族などのインディアン国家はそもそも連邦政府の権限下にあるものであり、州政府の権限が及ぶ性格のものではない、しかしながらその主権というものもあくまで連邦の下で成り立つ範囲のものである」というものだった。 連邦最高裁判所は結果として連邦政府との条約に基づく主権を認め、1832年5月にはジョージア州の法案そのものも無効であると裁定したのであるが、ジャクソン大統領の推進する強制移住の政策までをも阻止するものではなかった。1835年、合衆国はチェロキー族のオクラホマへの強制移住を決行した。
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