チェロキー・ネーションの首長
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「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「チェロキー・ネーションの首長」の解説
1827年1月、チェロキー族の首長パスキラーと、ロスの庇護者チャールズ・ヒックスが2人とも死んだ。1827年2月23日付けでチェロキー族代理人ヒュー・モンゴメリー大佐に宛てたロスの手紙では、ヒックスの死によってロスがネーションの政治的な事項の責任者となったと記していた。1827年という年は、ロスが臨時首長に昇ったことだけでなく、チェロキー族政府の政治改革において頂点にあった年でもあった。チェロキー族議会は二院制のネーション政府を創設する一連の法律を成立させた。1822年にはチェロキー族最高裁判所を創設しており、三権分立の政体を創設する仕上げとなった。1827年5月、ロスは24名の委員からなる憲法制定委員会委員に選ばれ、委員会が起草した憲法では、首長、首長の諮問委員会、およびナショナル・コミッティを要求し、これらが一緒になってチェロキー・ネーションの総協議会を形成することとした。この憲法は1827年10月に批准され、1828年10月に発効となり、この時点でロスが首長に選出された。その後繰り返し選出されたロスはその死の1866年まで首長を続けた。 チェロキー族はネーションの権利を守るためにはっきりとした長期的政策の形成を任せられる代表権を持つ政府の仕組みを作り出した。彼等は、アメリカ合衆国政府の複雑さを理解し、その知識をネーションの政策遂行に活かすことのできる強い指導者の姿をロスの中に見た。
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