チェロキー族に対する作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 03:55 UTC 版)
「グリフィス・ラザフォード」の記事における「チェロキー族に対する作戦」の解説
詳細は「チカマウガ戦争」を参照 ラザフォードの連隊は、7月23日にマクガヘイ砦で、ジェイムズ・マーティンおよびマーティン・アームストロング各大佐の指揮するギルフォードとサリー各地区連隊と落ち合った。そこからこの3個連隊はスワナノア・ギャップを抜けてブルーリッジ山脈を進み、ホミニー・クリークの谷を通り、ピジョン川を渡った。続いて現在のウェインズビルの町近くでリッチランド・クリークを抜け、タッカシギー川をあるインディアン集落近くで渡った。さらにコーウィー・ギャップに向けて進軍し、そこでチェロキー族の部隊と小戦闘を交わし、ラザフォード隊員の一人が負傷した。その戦闘後、オーバーヒル・チェロキーの「ミドルタウンズ」(テネシー川沿い)に進み、そこで9月14日にサウスカロライナのアンドリュー・ウィリアムソン将軍と出逢った。ウィリアムソンも同様な任務で来ており、直ちにノースカロライナの3個連隊に合流した。 4個連隊となったこの軍隊は、谷の町エリジェイ(ジョージア)や、ワトーガ集落の南近く(現在の北東テネシー)で敵対的インディアンと小競り合いを演じた。最後はインディアン部族を服従させた。この遠征での被害はラザフォード連隊の3名が死んだことだった。しかし、インディアン側の被害は深刻だった。遠征の終わりまでに、インディアンの町36か所を破壊し、かなりの広さのトウモロコシ畑を台無しにさせ、インディアンの牛の大半を追い散らした。その後ラザフォードは同じ経路を辿って故郷に戻った。10月にはソールズベリーに到着し、部隊を解散させた。
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