ダート交流重賞を席巻
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エンプレス杯を圧勝したホクトベガは、その後函館記念、毎日王冠、天皇賞(秋)など芝のレースに5戦出走したが、いずれも敗れて1995年を終える。この結果を受けて陣営は翌年からの本格的なダートへの参戦を決め、手始めにエンプレス杯と条件が同じ1996年1月24日の川崎記念に出走させた。 このレースは第1回ドバイワールドカップに出走予定の日本が誇るダート最強馬・ライブリマウントの壮行レースと考えられており、レースでも1番人気に推されていた。他の出走馬も「打倒ライブリマウント」を掲げてJRAからトーヨーリファール、船橋期待のアマゾンオペラなど、中央・地方を問わず当時のダート戦線の精鋭たちが顔を揃えていた。しかし蓋を開けてみれば、3コーナーで先行するライブリマウントをかわして先頭に立ったホクトベガは他馬を全く寄せ付けず、2着・ライフアサヒ(名古屋)に1秒(5馬身)差をつける圧勝で交流競走2勝目を飾る。ホクトベガから6馬身差の3着に敗れたライブリマウントの陣営はこの結果にショックを受け、ライブリマウントの壮行レースと考えていた周囲にも動揺が広がったという。 大差勝ちではなかったものの、エンプレス杯のパフォーマンスは再現できたと考えた陣営は、その後もダートの中央・地方交流競走に照準を定め、フェブラリーステークス、ダイオライト記念に勝利。群馬記念ではレースレコードも記録する。そして帝王賞で5連勝を飾るとともに、ヒシアマゾンの生涯獲得賞金額を上回り、牝馬の獲得賞金額の新記録を樹立。ホクトベガのあまりの強さに出走回避が相次いで6頭立てとなったエンプレス杯で2着のスピードアイリスに8馬身差をつけて悠々と連覇を飾り、ジャパンブリーダーズカップ協会が設けた1億円ボーナスを獲得すると、秋の初戦となったマイルチャンピオンシップ南部杯で7連勝を達成した。陣営は、もしダート戦で敗れたら潔くその時点で引退させる方向であったが、レースコース・距離・馬場状態・出走馬の顔ぶれに関係なく、レースが始まってみれば3・4コーナーでの一捲りだけで圧勝してしまい、敗れる要素は何も見つからなかった。 出走条件が4歳以上牝馬に変更となったことで3年ぶりに参戦した11月10日のエリザベス女王杯(4着)を挟み、浦和記念の勝利で南関東4場全てでの重賞勝利を達成する。レースは2着・キョウトシチーに3/4馬身差に詰め寄られるものであったが、内容は危なげないものであった。続いて出走した芝の有馬記念は9着に終わるが、結局1996年はダートで8戦8勝、前年のエンプレス杯から続くダート交流重賞の連勝記録を9に伸ばすなど凄まじい成績を残し、この年のJRA賞最優秀ダートホースに選出。またJRA所属馬のためにNARグランプリの受賞資格はなかったが、特別表彰という形で表彰を受ける。そして1997年の最初のレースとして川崎記念に出走し、楽々と独走して連覇を達成。ダート交流重賞10連勝・通算16勝目を挙げ、グレート制導入以降のJRA所属馬の最多勝利記録を更新した。このレースはホクトベガの国内におけるラストレースとなることが事前に発表されており(後述)、スタンド改築工事中であったために実質30000人程度の収容能力しかなかった川崎に2倍近いおよそ59000人もの観客が来場。ロジータの引退レースとなった、1990年の川崎記念を上回る大混雑となった。 このように、ホクトベガが出走する日の競馬場では入場者数もレコードを記録し、さらに勝ち続けたことでファンの期待も裏切らなかった。特に1996年6月19日の帝王賞では、大井競馬場に定員をはるかに上回る77818人が来場。これは大井競馬場の入場者数の昼夜通じての最高記録である。 ダートグレード競走導入前夜のため、数字上では重賞4勝・GI1勝にとどまっているが、競走実績や人気を鑑みれば、ホクトベガは紛れもなく1990年代におけるスターホースの一頭である。
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