セント・ポール大聖堂での働き
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「ジョン・ゴス (作曲家)」の記事における「セント・ポール大聖堂での働き」の解説
1838年にアトウッドがこの世を去ると、ゴスは彼の跡を継いでセント・ポール大聖堂のオルガニストとなることを希望した。彼は大聖堂の司教座聖堂参事会員であった神父シドニー・スミスに助言を求めたが、神父は彼に年間の給与がたった34ポンドになると言ってからかった。家族を支えなければならないゴスは、この職に応募することは出来ないかもしれないと返事をした。しかし、その後スミスはオルガニスト職がいくつか副収入を得られることに気が付き、これによってゴスに再考の余地が生じた。そうして彼はこの職務を任ぜられることになったが、すぐさま彼はオルガニストが単にオルガンを弾くために雇われるのであって、大聖堂における他の音楽的要素に与える影響はわずかしかないということを悟った。音楽を取り仕切っていたのは後唱者のベックウィズ(Beckwith)参事会員であったが、彼は児童合唱の指導に当たっていた慈善係のホーズ(Hawes)参事会員と不仲であったのだ。加えて、大聖堂の重役達は音楽水準の引き上げに興味を持っていなかった。シドニー・スミスの見方が典型的である。「そこで祈りさえできれば(中略)我々の音楽としては十分であり、歌唱というものは非常に従属的な考慮に値するのみである。」スミスの同僚たちにはどちらの考えに対しても無頓着な者もおり、若い僧侶が不在となることで職務が放棄されて、礼拝を行えないといった事態が頻繁に生じていた。 ゴスは信心深さと優しい性格が特徴的な人物だった。彼の弟子のジョン・ステイナーはこう記している。「ゴスと関わりを持った者であれば誰の目にも、彼が宗教的な生活を送っているということ明らかだった。また、大衆にとっても彼の宗教曲が訴えかける日頃の効果が、その事実の証明となったのである。」彼の温和さは、厄介な歌手たちを相手に取り組もうとする際には不利な要素だった。テノールとバスの面々は生涯にわたる在職権を有しており、新たな音楽を学ぶことに興味を持たなかったため、ゴスは彼らの怠慢さに対してなす術がなかった。伝記作家のジェレミー・ディブルはこう記した。「1842年作曲の(ゴスの)よく出来たアンセム『Blessed is the man』に対して向けられた敵意によって、彼の自信はすっかり失われてしまい、彼はそれ以上アンセムを書けなくなってしまった。1852年に初代ウェリントン公爵の国葬が行われるにあたって依頼を受け、やっと2曲のアンセムを書くことができたのである。」 ウェリントン公の葬儀の際に少年合唱団に所属していたステイナーは、後にリハーサルにおいてゴスの音楽が発揮した力について回想している。「最後の数小節のピアニッシモの音が聞こえなくなると、しばし深い静寂が訪れ、全ての者は心の奥底からその真なる信仰精神に打ち震えたのだった。そして徐々に会場のあらゆる方面から、作曲者への最大級の祝福が沸き起こった。その大きな誠意と敬意の込もったものは、もやは『拍手』と呼べるようなものではなかった。」ステイナーは日頃、さほど師を敬っていたわけではなかった。後年、彼はサリヴァンと2人で笑いをこらえきれなかった事件の話を思い出している。ある時、礼拝中にゴスがうわの空でオルガンのペダルを跨いで歩こうとして「雷鳴のような轟音を出してしまい、礼拝に集まった人々が怯えて説法が一時中断してしまっているのに、やっと気付いたのだ。」
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