セント・マーティン・ホール集会とは? わかりやすく解説

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セント・マーティン・ホール集会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:34 UTC 版)

第一インターナショナル」の記事における「セント・マーティン・ホール集会」の解説

1862年ロンドン開かれた万国博覧会に、300名のフランス労働者ドイツから12名の労働者代表団派遣された。フランス代表団組織し費用出したのはナポレオン3世である。 この時期ロンドンでは北部支援集会ポーランド支援集会盛んに開かれ活発な政治運動展開された。フランス労働者はこうした運動招待を受け、ブリテン・フランス労働者代表者間の談合国際組織実現させる具体的な道筋定まっていく。7月22日集会には5名のフランス労働者出席してポーランド蜂起賞賛する演説行い製靴工のジョージ・オッジャー(英語版)を含む3名の委員会任命したほかパリ労働者向けて宣言文発した資本家たちが脅しとして使う外国人労働者輸入などの手段に対抗するためには、労働者国際組織が必要であると唱えた1864年9月28日ロンドンはセント・マーティン・ホール(英語版)にてフランス代表団受け入れ歓迎集会催され、「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立宣言された。ブリテン側の世話人はオッジャーと大工ランダル・クリーマーフランス代表は青銅細工職人アンリ・トラン(英語版)、議長ロンドン大学教授のエドワード・ビーズリ(英語版)だった。 この集会にはマルクス同席しており、ヨーロッパ各国急進派一堂に会する大規模なものとなった。ビーズリは各国政府による国際法重大な違反非難するとともに暴力的な協定暴露し地球上における正義と公正の実現のために世界労働者団結呼びかけた。発足集会決議に基づきロンドン本部設置することが定められ、「中央評議会」と年次大会主軸としたIWA組織示されたほか、マルクス起草した第一インターナショナル創立宣言』と『規約』が満場一致採択された。マルクスIWA内の担当書記であったが『創立宣言』を起草し採択へとつなげることで、IWA実質的な指導獲得していった。 IWA組織短期間整備されたが、最期まで諸派混在状態にあったため、その意思決定困難なものであった。近い立場の旧チャーティズム信奉者ブランキラッサールの他に、IWAにおいて「権威となったマルクスへの主な反対者として、ブリテン労働組合指導者たちやプルードンバクーニンマッツィーニらが存在したマルクス1871年アメリカ人会員のフリードリヒ・ボルテに宛てた手紙において、「インターナショナル作られたのは、社会主義的、半社会主義的宗派労働者階級本当闘争組織おきかえるためであった。これは最初規約創立宣言をみれば一目でわかる。……。インターナショナル歴史は、労働者階級本当運動逆らって自分地位保とうつとめた宗派アマチュア実験対する、総評議会たえまない闘争であった」と語っている。マルクス「社会主義」内部雑多な勢力整理していく算段であった。 「マルクス」および「第一インターナショナル創立宣言」も参照

※この「セント・マーティン・ホール集会」の解説は、「第一インターナショナル」の解説の一部です。
「セント・マーティン・ホール集会」を含む「第一インターナショナル」の記事については、「第一インターナショナル」の概要を参照ください。

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