セント・マーティン・ホール集会
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「第一インターナショナル」の記事における「セント・マーティン・ホール集会」の解説
1862年にロンドンで開かれた万国博覧会に、300名のフランス労働者、ドイツから12名の労働者の代表団が派遣された。フランス代表団を組織し費用を出したのはナポレオン3世である。 この時期、ロンドンでは北部支援集会やポーランド支援集会が盛んに開かれ、活発な政治運動が展開された。フランス労働者団はこうした運動に招待を受け、ブリテン・フランス労働者代表者間の談合で国際組織を実現させる具体的な道筋が定まっていく。7月22日の集会には5名のフランス労働者が出席してポーランド蜂起を賞賛する演説を行い、製靴工のジョージ・オッジャー(英語版)を含む3名の委員会を任命したほかパリの労働者へ向けて宣言文を発した。資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要であると唱えた。 1864年9月28日、ロンドンはセント・マーティン・ホール(英語版)にてフランスの代表団を受け入れる歓迎集会が催され、「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立が宣言された。ブリテン側の世話人はオッジャーと大工のランダル・クリーマー、フランス代表は青銅細工職人アンリ・トラン(英語版)、議長はロンドン大学教授のエドワード・ビーズリ(英語版)だった。 この集会にはマルクスも同席しており、ヨーロッパ各国の急進派が一堂に会する大規模なものとなった。ビーズリは各国政府による国際法の重大な違反を非難するとともに暴力的な協定を暴露し、地球上における正義と公正の実現のために世界の労働者の団結を呼びかけた。発足集会の決議に基づきロンドンに本部を設置することが定められ、「中央評議会」と年次大会を主軸としたIWAの組織が示されたほか、マルクスが起草した『第一インターナショナル創立宣言』と『規約』が満場一致で採択された。マルクスはIWA内の一担当書記であったが『創立宣言』を起草して採択へとつなげることで、IWAの実質的な指導権を獲得していった。 IWAは組織は短期間で整備されたが、最期まで諸派の混在状態にあったため、その意思決定は困難なものであった。近い立場の旧チャーティズムの信奉者、ブランキやラッサールの他に、IWAにおいて「権威」となったマルクスへの主な反対者として、ブリテンの労働組合指導者たちやプルードンやバクーニン、マッツィーニらが存在した。マルクスは1871年アメリカ人会員のフリードリヒ・ボルテに宛てた手紙において、「インターナショナルが作られたのは、社会主義的、半社会主義的な宗派を労働者階級の本当の闘争組織でおきかえるためであった。これは最初の規約や創立宣言をみれば一目でわかる。……。インターナショナルの歴史は、労働者階級の本当の運動に逆らって…自分の地位を保とうとつとめた宗派やアマチュア実験に対する、総評議会のたえまない闘争であった」と語っている。マルクスは「社会主義」内部の雑多な勢力を整理していく算段であった。 「マルクス」および「第一インターナショナル創立宣言」も参照
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