セント・ヘレンズ山の観測
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 09:04 UTC 版)
「ハリー・グリッケン」の記事における「セント・ヘレンズ山の観測」の解説
1958年、父ミルトンと母アイダの間に生まれる。1980年にスタンフォード大学を卒業し、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に進学した。同年の後半にはアメリカ地質調査所に出向し、ワシントン州の火山であるセント・ヘレンズ山の観測に尽力した。 1850年代の噴火を最後に休眠状態にあったセント・ヘレンズ山は、1980年3月頃から再び火山活動が活発になりつつあった。頻発する地震や火山活動を受け、アメリカ地質調査所のバンクーバー支所で働く火山学者は、差し迫っている噴火を観測する準備をしていた。地質学者であるドン・スワンソンは成長する溶岩ドームとその周辺に反射器を設置し、1980年5月1日にコールドウォーターIとIIの観測基地を設立した上で、ドームの変形に伴う反射器までの距離の変化を光波測距儀を用いて測定していた。グリッケンはセント・ヘレンズ山を2週間にわたって観測し、山から北西に5マイル (8 km) 強に位置するコールドウォーターII基地にあるトレーラーで寝泊まりしていた。 1980年5月18日、6日間の観測任務を終えたグリッケンはカリフォルニア州マンモスで指導教授のリチャード・V・フィッシャーから卒業研究に関する面接を受けるため、休暇を取った。その代役として、グリッケンの研究の助言者で指導者でもあるデイヴィッド・ジョンストンが観測任務に就いたが、火山内部には移動性のマグマの兆候があり、ジョンストンはその安全性について懸念を表明していた。 5月18日8時32分、セント・へレンズ山北側の斜面直下で発生したマグニチュード5.1の地震によって山体の一部が滑落し始め、大規模な噴火が発生した。火砕流が斜面を超音速に近い速度で流れ落ち、巻き込まれたジョンストンは即死した。 噴火後、グリッケンは救助活動の中心となったトゥートル高校へ行き、アメリカ空軍予備役救援大隊と合流してジョンストンがいる基地の捜索にあたった。ヘリコプター3機による捜索活動は6時間近くにも及んだが、何の痕跡も見つからなかった。グリッケンは4機目のヘリコプターを出すよう依頼したが、危険な状態であったためこれは却下された。この時、グリッケンはひどく取り乱しており、ジョンストンの死を受け入れようとしいなかったが、スワンソンに慰められたことで落ち着きを取り戻した。
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