ジャーナリズム・新聞『新欧州』
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「ルイーズ・ワイス」の記事における「ジャーナリズム・新聞『新欧州』」の解説
まもなくジャーナリズム、特に国際関係に関心をもつようになった。直接のきっかけは、父ポール・ルイ・ワイスの元同僚で元老院議員・『急進派(フランス語版)』編集長のジュスタン・ペルショ(フランス語版)が彼に寄稿を求めたことであった。彼はこれを引き受け、ルイ・フランという偽名で政府の経済政策を批判する記事を次から次へと掲載した。当初、ルイーズ・ワイスはこの記事の校正を引き受けていたが、やがて匿名のまま父の代わりに記事を書くようになった。 第一次大戦中は、コート=デュ=ノール(現コート=ダルモール県)の野戦病院で負傷兵の看護にあたったが、戦争の惨状を目の当たりにしたワイスは、ジャーナリズムを「戦争に対する戦争をする」ための手段にしようと決意し、1918年1月12日、ジャーナリストのイアサント・フィルーズとともに週刊新聞『新欧州(フランス語版)』を創刊した。『新欧州』は主に国際政治を扱い、平和維持のための欧州諸国の和解を目的とする「フランス国内外で最大の政治新聞」を目指していた。ワイスは同紙にドイツとの講和、圧制に苦しむ人々の解放、国家間の平和を達成するための国際組織の樹立などを訴える記事を掲載し、1919年6月28日に調印されたヴェルサイユ条約はそれ自体として平和をもたらすものではなく、「壁に描かれた鳩が人間の殺し合いを阻止できる」と考えるのは「ナイーブな平和主義者だ」と批判した。 1919年にフィルーズと『新欧州』の編集方針について意見が合わなくなったワイスは、いったん同紙を離れ、日刊紙『ル・プティ・パリジャン(フランス語版)』の特派員としてプラハ、ブダペスト、ウィーン、ワルシャワなどの中欧の都市を訪れ、チェコスロバキアの独立運動を率いたトマーシュ・マサリク、エドヴァルド・ベネシュ、ミラン・シュテファーニクらに取材した。さらに1921年にはモスクワに派遣され、カール・ラデック、レフ・カーメネフ、レフ・トロツキーらのボリシェヴィキの指導者に取材。このときには、ボリシェヴィキ革命(十月革命)後のソビエトに残っていたフランス人女性らの出国の手助けをした。 帰国後、フィルーズから『新欧州』を引き継ぎ、戦後、国民がナショナリズムに傾倒し、ドイツへの復讐心を強めていた状況にあって平和主義の重要性を訴えた。編集委員や寄稿者として、後に政界で重要な役割を担うことになるルイ・ジョックス(フランス語版)、アンリ・ド・ジュヴネル(フランス語版)、ヴラディミール・ドルメソン(フランス語版)、ジョルジュ・ボネ(フランス語版)、アリスティード・ブリアン、エドゥアール・エリオ、マルセル・カシャン(フランス語版)、レオン・ブルム、サン=ジョン・ペルスらのほか、ポール・ヴァレリー、エリー フォール(フランス語版)などが参加していた。
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