ジハードとイスラム帝国の形成とは? わかりやすく解説

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ジハードとイスラム帝国の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 21:58 UTC 版)

イスラム教」の記事における「ジハードとイスラム帝国の形成」の解説

その翌々年ムハンマドマディーナで死ぬが、マディーナの民は紆余曲折の末、イスラム教後継者アブー・バクル選び、その地位カリフ定めて従った。しかし、アラビア中でそれを認めない指導者続出し中には自ら預言者主張する者も現れまとまってマディーナを襲う準備始めたアブー・バクルたちから見ればとんでもない動きであり、以後征討戦が繰り広げられアブー・バクル側が勝利すると、カリフ制度はイスラム教政治的中核として定まったこうしたムハンマド死後の一連の後継者紛争を、イスラム側の史書では、リッダ戦い、と呼ぶ。 ところで、イスラム教はこうして発足したが、結集した軍隊解散してしまえば軍隊構成していた群衆は元の民に戻ってしまうため、イスラム教存続させられるかさえ分からない有様であった。しかし、軍に給与を払うほどの財源マディーナにはなく、そのため、軍隊維持するには、敵とそこからの略奪品求めて、常に戦い続けるしかなかったのである。こうして、常に新たな敵求めて以降も、イスラム教徒による征服戦争続けられた。 まずは、近隣東ローマとなっていたシリア侵攻したが(633年)、当時東ローマサーサーン朝ペルシア上述大戦争のため、共に疲弊しており、さらにはシリア住民単性論者が多く、これはキリスト教では異端であり、迫害対象であった一方、やってきたイスラム教徒住民歓迎され東ローマ軍多少抵抗したものの、十年もしないうちに降伏し、こうしてイスラム教徒シリアエジプト肥沃な領土手に入れた。 ほぼ同時期に、サーサン朝に対して事を起こす。この帝国当時戦争による疲弊加えて皇帝不在がその直前まで続いており、極度混乱状態にあった。そのため、イスラム教アラビア人による略奪征服は、自然発生的に行われていたが、その略奪隊を組織するため、ハリードがイラク派遣された。彼は複数の街を征服した後、シリア戦線去ってしまい、残されイスラム軍は統制欠き進軍停滞し各所敗戦重ね、サーサン朝が勝利するかに見えた。 しかし、アブー・バクル後で2代目カリフとなったウマルは、新たに将軍任命し態勢立て直し636年、カーディシーヤで重装の騎兵象兵を含むペルシア軍を撃破し642年にはニハーヴァンドペルシア皇帝自らが率い親征軍を大破して皇帝数年後部下殺されて、こうしてペルシア地域も、イスラム教徒下ったであった一方こうした遠征同時並行的に、イスラム軍は、海からも遠征開始した637年小艦隊ではあったが、イスラム軍はアラビア半島東部オマーン出港してインドボンベイ付近略奪しその後も、インド洋方面への攻撃繰り返した。 こうして、イスラム教はその軍事活動をもって教勢中東中に広げ周辺地域への遠征活動その後続き短期間のうちに大規模なイスラム帝国築き上げた

※この「ジハードとイスラム帝国の形成」の解説は、「イスラム教」の解説の一部です。
「ジハードとイスラム帝国の形成」を含む「イスラム教」の記事については、「イスラム教」の概要を参照ください。

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