シーア派の巡礼地
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「シャー・アブドルアズィームのハラム(英語版)」も参照 アッバース朝時代の9世紀、十二イマーム・シーア派にとって重要な出来事がレイで起きた。10世紀の歴史家ナジャーシー(ペルシア語版)は、「アブドルアズィーム(ペルシア語版)という人物がレイに移り住み、当地で亡くなった。死後の彼の衣服の懐中から自分の出自を記したメモが出てきて、それによると、彼はハサン・ブン・アリーの5世孫であった。アブドルアズィームは、素性を隠してアッバース朝政府の監視の目を逃れながら預言者の一族のメッセージを人々に伝えるために長い旅をしていた。」といった内容の出来事を伝える アブドルアズィームはリンゴの木の下に葬られた。その墓には、被葬者の没した直後から現代に至るまで、複数次にわたって、時のシーア派王権による寄進がなされた。セルジューク朝のワズィール、マジドッディーン・バラーワスターニーはシーア派を信奉しており、アブドルアズィーム廟を保全した。サファヴィー朝のタフマースブ1世は、アブドルアズィーム廟を大幅に拡張した。現存する霊廟のイーワーン建築はこのときに建築されたものである。ガージャール朝のナーセロッディーン・シャーは、タフマースブが拡張したモスクを美麗に装飾させた。 アリー・ハーディーはレイから来た旅人に、アブドルアズィームの墓にお参りするのはイマーム・フサインの墓にお参りするのと同等のご利益があると言ったとされる。ところで、生前のアブドルアズィームの旅の目的地がレイであった理由は、一説によると、夢のお告げでここにムーサー・カーゼムの息子ハムザの墓があることがわかったからである。ハムザはアリー・レザーの教友でサファヴィー朝王家の父祖とされる人物であり民衆に人気がある。マアムーンに殺されてアリー・レザーに葬られたが埋葬地が不明であり、イラン各地にハムザの墓がある。アブドルアズィームはレイにおいて、何の変哲もない墓石の近くで断食や礼拝に務める敬虔な生活を送っていたが、その墓こそハムザの墓であった、と信じられている。アブドルアズィーム廟にはハムザ廟も隣接している。 このように成立したシャー・アブドルアズィームのハラム(英語版)の近くには、有名人が数多く眠るイブン・バーブワイヒ墓地(ペルシア語版)や、セルジューク朝の君主トゥグリル・ベクの霊廟塔(英語版)も所在する。 現代のシャフレ・レイは、テヘラン州の一シャフレスターンである。特に、隣国イラクからサッダーム・フセインの政権掌握後、イランに移住してきたアラブ系の人々が多く住み、リトル・アラブを形成している。
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シーア派の巡礼地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 14:11 UTC 版)
マシュハドの宗教的重要性は、シーア派のムスリムにとって、巡礼地でもあるという点にも現れている。例えば「富者はマッカへ、貧者はマシュハドへ」と言われるし、またマッカ巡礼を果たし、ハーッジの称号を冠するに至った者もまた、次にはマシュハド巡礼(特にイマーム・リダー廟)を行い、マシュティーの称号を得るのである。もっとも、マシュハドの住民は、自動的にマシュティーと呼ばれる。 現在も年間約2000万人のムスリムが、マシュハドを巡礼に訪れる。
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