シャルケ04時代
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オフィスワークが多いスポーツディレクターの職は向かないと感じたラテックは、再び監督としての現場復帰を望む。しかし古巣のバイエルン・ミュンヘンへの監督としての復帰はタイミング的に不可能であり、新しいクラブを探していたラテックに同リーグの名門シャルケ04のギュンター・アイヒベルク会長がアプローチする。 43歳でシャルケ04の会長になったアイヒベルク会長は破格の給料と有力選手獲得のための巨額な強化費を提示。このオファーに魅力を感じたラテックは1992年7月にシャルケ04の監督に就任する。しかし1977年以降一度もヨーロッパカップへの出場を果たしていないどころか、1991年まではドイツ2部に所属していた同クラブは名門でありながら1人の代表選手も所属していないまだドイツ・ブンデスリーガの弱小チームであった。 ラテックは何とか順位を10位前後まで引き上げるが、アイヒベルク会長による幾度となる現場介入や、同会長によるメディアを通しての不適切な発言と批判、クラブマネジメントの問題、金銭的なトラブル、アイヒベルク会長が確約した選手の移籍が実現しないなど多くの問題がクラブのマネジメントレベルで起こり、チームも低迷。そして期待を裏切れた状況で会長を猛烈に批判したラテックも1993年1月に解任された。 同月に「サッカーの事を全く知らない会長に振り回されるのはもう充分。多くのタイトルを獲得したし、監督業はもう引退する。」と発言。同年から新しく設立されたドイツ・スポーツテレビ(DSF)のコメンテーターになった。またドイツの日刊新聞"Die Welt"では定期的に監督の視点からのコラムを書くなど、「元サッカー監督のジャーナリスト」になりつつあった。
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シャルケ04時代
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「ラウル・ゴンサレス」の記事における「シャルケ04時代」の解説
2010-11シーズンの移籍市場にて、シャルケ04と2年契約を結んだ。シャルケの監督を務めていたフェリックス・マガトは、公式サイト上で「シャルケにとって素晴らしいニュースだ。並外れた選手であり、ワールドクラスのストライカーの獲得に成功した」と紹介した。シャルケでの初試合となった8月1日のバイエルン・ミュンヘンとの非公式親善試合で初得点を記録し、チームも勝利した。公式戦デビューは7日のDFLスーパーカップで、再びバイエルン・ミュンヘンとの試合であった。しかしその試合では得点を挙げることができず、チームも敗れた。21日のハンブルガーSV戦でブンデスリーガデビューを果たした。9月25日、第6節のボルシアMG戦で移籍後公式戦初ゴール、11月20日、第13節のブレーメン戦、12月17日のケルン戦で それぞれハットトリックを決めた。チャンピオンズリーグでは10月20日、ハポエル・テルアビブ戦での2ゴールで自身の持つCL最多得点を68に更新した。2011年2月、UEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦バレンシアCF戦1stレグにおいて、自身のCL最多得点を69に更新し、欧州カップ戦の合計でもフィリッポ・インザーギを抜いて単独最多の71得点とした。またこの試合でCL出場試合数も139となり、パオロ・マルディーニの最多記録に並んだ。 2011-2012シーズン、12月17日のヴェルダー・ブレーメン戦ではハットトリックを決め。2月19日のVfLヴォルフスブルク戦ではシャルケでの33得点目を記録し、レアル・マドリードでの323得点及びスペイン代表での44得点と合わせてキャリア通算400得点を達成した。 2012年で契約満了となるラウルに対してシャルケは1年間の契約延長を提示したが、新たな2年契約を望んでいたとされる ラウルとの間で交渉は決裂。ラウルが家族との時間を多く確保したいと希望したこともあり、2011-12シーズン終了後に退団することが公式HPで発表された。4月28日、第33節のヘルタ・ベルリン戦でシャルケでのラストゴールを決めた。シャルケのスポーツディレクターを務めるホルスト・ヘルトは、2年しかプレイしていないにも関わらずラウルの背番号7を永久欠番とする意向を発表した。
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