グルジエフとの絶縁宣言~「システム」の教師~教えの行き詰まり~「システム」の放棄~書き改められた「イワン・オソキン」(1924年~1947年)
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「ピョートル・ウスペンスキー」の記事における「グルジエフとの絶縁宣言~「システム」の教師~教えの行き詰まり~「システム」の放棄~書き改められた「イワン・オソキン」(1924年~1947年)」の解説
1924年1月、P・D・ウスペンスキーは、グルジェフがフランスのフォンテーヌブローで追求する共同の取り組みを「失敗」と断定し、グルジエフからの絶縁を宣言し、自分とグルジエフのどちらを選ぶのかはっきりさせることを生徒たちに求めた。 一九二四年一月、私は、ロンドンで私が指導する複数のグループのメンバーらに対し、自分はG氏および同氏のグループと完全に縁を切り、一九二一年の創始時の方針に従って、独自に自分なりのワークを追求する考えを明らかにした。私とともに留まるか、G氏に従うか、それともワークをきっぱり断念するか、自由にするとよいと言った。私のところに留まる者たちに対しては、もはやG氏のことやフォンテーヌブローでのワークの失敗のことを話題にしないという新しい規則を設けた。[……]何がまずかったのか? あなたが知りたいというなら、ひとつだけ言おう。このひとつのことだけでも、すべてをだいなしにするのにじゅうぶんだった。このときまでに、彼は彼がかつてロシアでわれわれに教えたところの原則、とくにワークに参加する者たちを選び、しかるべき準備をさせるということをめぐる原則をことごとく破るようになっていた。用意ができていない人たちを受け入れ、彼らを権威ある持ち場につかせ、ワークについて話をすることを許すなどした。このワークは破綻すると私は見て、ロンドンでのワークを救うため、私は彼と縁を切った。 J・G・ベネット夫妻、モーリス・ニコルら、ほとんどの生徒がP・D・ウスペンスキーを選んだ。 その後、P・D・ウスペンスキーはグルジエフよりも自分を選んだ生徒たちに対し、グルジエフに由来する「第四の道」思想の自己流の解釈に基づく「システム」を教えた。1924年7月にグルジエフが交通事故を起こした後、多くの生徒は、グルジエフは事故で精神に異常をきたしたという悪質な噂を信じ、やがてイギリスとアメリカでは、グルジエフは忘れられる一方、P・D・ウスペンスキーをはじめとする元生徒たちがグルジエフに由来する教えを第第的に広めるようになった。 とはいえ、事態は単純ではなく、同じ屋敷内では、戻ってきたマダムがそれとは別に、グルジエフの影響を強く受けた教えを同じ生徒たちに伝えようとし、彼女の呼び寄せた教師がムーヴメンツを教えるといった、おもしろい状態も生じていた。 しかし、やがてP・D・ウスペンスキーは教えに行き詰まりを感じだし、とくに1940年、戦争を逃れてアメリカに映った後は、状況および生徒たちへの不満をつのらせる。アメリカでの滞在の終わりにかけて、ロシア人の秘書であるマリー・セトンは、P・D・ウスペンスキーの教師としての行き詰まりを察し、ついにこれについて問い質したところ、あっさりと認め、「『システム』は自分の稼業になってしまった」と述べたと伝えられる。 1947年になると、P・D・ウスペンスキーは単身でアメリカからイギリスに戻り、初回のミーティングを開く前に、「システム」にお汚染されていないまっさらな人たちに会いたいという思いを口にした。そして1947年2月26日を初日とする6回のミーティングで、「システム」の教師としての自分自身を否定し、実質的に「システム」の死を宣言した。 P・D・ウスペンスキーは1947年10月2日に世を去った。まるで遺書としてあらかじめ用意されていたように、その月のうちに英語版の『イワン・オソキン』が出版された。とくに最後の二つの章が大きく書き改められている。魔術師とオソキンが最後に会話する場面であり、読者はその内容から、グルジエフからの誘いかけにもかかわらず実際には実現しなかったグルジエフとP・D・ウスペンスキーの間での最後の対話の内容を想像することができる。さらにその後、マダム・ウスペンスキーの判断で、現在『奇跡を求めて』として知られる原稿のうち一章がグルジエフのもとに送られ、グルジエフはその出版を許可した。これは1949年に出版されている。
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