クロアチアにおける俳句
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「日本とクロアチアの関係」の記事における「クロアチアにおける俳句」の解説
1925年に生まれ、1952年から1990年にかけてザグレブ大学などで教鞭を執っていた数学者、電気工学者のヴラディミル・デヴィデ(クロアチア語版)博士は、1970年からクロアチア作家協会(クロアチア語版、英語版)に所属する文人でもあった。同年、デヴィデ博士は『日本の詩「俳句」、そして俳句の文化的な枠組み』 (Japanska haiku poezija i njen kulturnopovijesni okvir) という俳句に関する著作を出版したことを皮切りに、俳句を中心とした日本文化の研究、発表、普及に貢献し、日本に関する研究書だけで10点以上もの著作を上梓した。また、デヴィデ博士は1981年からクロアチア・ペン・センター(クロアチア語: Hrvatski P.E.N. Centar、国際ペンクラブのクロアチア支部)に所属し、1983年には、俳句などの日本文化をクロアチアに広めた功績を讃えられて勲三等瑞宝章を受勲している。後年、世界俳句協会の顧問なども務めた。博士自身の手による俳句の詩作は、日本文化や数学に関する著作と比べると数が少ないが、1990年代に4点の作品を上梓している。デヴィデ博士は日本人のご夫人を残して2010年に85歳で亡くなったが、その名はヴラディミル・デヴィデ俳句賞 (Vladimir Devidé Haiku Award) などに今なお残っている。 ヴコヴァル出身の文学者レネ・マトウシェク(クロアチア語版)も俳句に影響を受けたクロアチア人の一人で、まだ彼が20代であった1980年代の前半頃から俳句を作り始めた。しかし、1991年8月25日、連邦軍(クロアチア語版、英語版)の軍事支援を受けて戦車や重火器で武装する約3万6000人のセルビア人勢力がヴコヴァルに攻撃を仕掛けた。この戦闘が開始されたことは、若き詩人マトウシェクの運命をも決定づけた。ヴコヴァルを防衛するクロアチア人勢力の守備隊は僅か2000人でしかなく、全く勝ち目のない戦いであったが、彼は町を捨てて逃げることを潔しとせず、ヴコヴァルに踏み止まって無線で町の状況を知らせ続けた。だが、33歳のマトウシェクは11月20日を最後に消息を絶った。マトウシェクは長らく行方不明とされていたが、2002年11月14日にザグレブの法科学鑑定研究所が共同墓地に埋葬されていた複数の身元不明の遺体から彼の遺体を特定して、1991年11月20日から21日にかけて連邦軍やセルビア人民兵によって行われた虐殺で亡くなっていたことが判明した。同月22日、マトウシェクの遺体は改めてヴコヴァルの「クロアチア守護者の路地」 (Aleja hrvatskih branitelja) に埋葬されることになった。2008年、彼の名前を記念した「レネ・マトウシェク」国際俳句会合が、クロアチアの画家であり文人でもあるトミスラヴ・マリヤン・ビロスニッチ(クロアチア語版)によって開催された。ビロスニッチもまた、俳句に影響を受けたクロアチア人のうちの一人であり、これまでに8点の俳句詩集を出版している。
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