クロアチアの民族主義と地図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 02:22 UTC 版)
「大クロアチア」の記事における「クロアチアの民族主義と地図」の解説
クロアチア・スラヴォニア・ダルマチアを殻、ボスニア・ヘルツェゴビナを核とするこの考え方を取り上げ、ミロスラヴ・クルレジャ(en)が率いるザグレブのユーゴスラビア人民共和国の編集協会は、1960年発行のユーゴスラビア百科事典の第4巻のクロアチアの項目において、クロアチアがドリナ川以西のボスニア・ヘルツェゴビナを併合した図を掲載した。図では、ドリナ川左岸の領域をすべて除外することなくクロアチアに加えている。同協会は、1968年発行のユーゴスラビア百科事典の第7巻のセルビアの項目にも、同様の図を掲載した。ここではセルビアはドリナ川までとなっており、セルビアの領域が川の左岸へと及ぶことはなかった。 このような考え方には1世紀以上の歴史があり、1862年にさかのぼれば、ヨシップ・パルタス(en)は、フラニョ・クルジッチ(en)のデザインにしたがって、「現在の各州と、示唆される古代の重要な居住地、現在の居住地を示すクロアチア王国の全図」と題された地図を発行した。この地図はドラグティン・アルブレヒト(Dragutin Albrecht)のザグレブ印刷所で印刷された。この地図では、クロアチア王国の領域として、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア南西部、スロベニア南西部がクロアチアとつなげられた。 クロアチアの東の国境はドリナ川であるとするクロアチア人の願望に基づいた地図に、ニコラ・ズヴォニミル・ビェロヴチッチ(en)のものがある。1954年にドゥブロヴニクで発行されたビェロヴチッチの冊子「クロアチア人とスロベニア人の境界(Etnografske granice, Hrvata i Slovenaca)」には、1933年にビェロヴチッチが製作し、ユーゴスラビア王国とその周辺のクロアチア人地域の境界が示された地図が掲載されている。 この地図に示されたクロアチアの歴史的な領土の領域は、アンテ・パヴェリッチのクロアチア独立国を彷彿とさせるものであった。クロアチアの一部として、ボスニア・ヘルツェゴビナ全域・バールの南までのコトル湾全域・ヴォイヴォディナのバチュカ・ハンガリー領のバヤ(Baja)・ペーチ南西のドゥラヴァ川沿の東はSt. Martin[どこ?]から西はレンダヴァまで・スリイェム全域が含まれている。 この地図は意図的に誤ってかかれ、単に事実に基づいた民族分布を示すよりはクロアチアの拡張への願望を表現したものであった。つまり、この領域は「クロアチア国家と歴史的権利」によりクロアチア領土とされる領域の全てを包含している。
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