クロアチア人反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/07 06:03 UTC 版)
「ヴィルフランシュ=ド=ルエルグ」の記事における「クロアチア人反乱」の解説
1943年9月17日早朝、ナチス・ドイツに占領されていたヴィルフランシュはその勝利の日を迎えた。この日、多数がボシュニャク人やカトリックのクロアチア人で占められていた第13SS武装山岳師団の第13大隊は、ドイツの司令部に対して反乱を起こした。ドイツ人将校たちを殺害し武器を奪った後、武装勢力はヴィルフランシュの実効支配を奪い、わずか一日でヴィルフランシュはドイツの占領から解放された。 しかし、ドイツ司令部は迅速に反撃を開始し、近隣から大きな援軍が派遣された。充実した装備と数で圧倒した血生臭い市街戦の後、ドイツ軍はヴィルフランシュを奪還した。生存者は即座にドイツ当局によって死刑判決を受け、『クロアチア人犠牲者の広場』と呼ばれる場所に埋葬された。若者の英雄的な行為は悲劇に終わったが、BBCのラジオ・ロンドンは、ナチス・ドイツ占領下にある西ヨーロッパの町から町へと、解放を勝ち取ったに値するヴィルフランシュ=ド=ルエルグを伝え広めた。反乱の指導者と疑われたのは、イスラム教徒のフェリド・ドジャニッチ(Ferid Džanić)、カトリック教徒のエドゥアルド・マトゥチノヴィッチ(Eduard Matutinović)、ニコラ・ヴケリッチ(Nikola Vukelić)、ボジョ・イェリネク(Božo Jelinek)であった。イェリネクとマトゥチノヴィッチがマキの信頼を勝ち取る一方で、ドジャニッチとヴケリッチはドイツ軍との戦闘で死亡した。イェリネクはレジオンドヌール勲章を授けられた。事件の記憶をとどめようと、戦後にヴィルフランシュ=ド=ルエルグの通りはアヴェニュー・デ・クロアート(Avenue des Croates)と改名された。
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