キリスト教者
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1945年11月、予備役編入。極東国際軍事裁判(東京裁判)では連合艦隊航空参謀として特攻で病院船2隻が沈んだことについて質問された。1945年12月〜1946年3月、第2復員省勤務。史実調査部、GHQ歴史科嘱託として戦中資料の整理研究を行った。その後、正規海軍将校のため公職追放となる。 戦後、元空軍軍曹のジェイコブ・デシェーザー宣教師の書いたパンフレットを読みキリスト教に関心を持つ。 1950年6月、日本基督教団堺大小路教会の斉藤敏夫牧師主催の平和集会に共鳴し1951年、斉藤牧師司式のもと洗礼を受けた。以降淵田は1952年から1957年まで8度にわたりアメリカへ伝道の旅に出かけた。キリスト教の伝道をする淵田には海軍仲間の批判、アメリカのリメンバーパールハーバーの声、元特攻隊が刀を持って押し入るなど障害も多かった。しかし淵田は自らが「真珠湾の英雄(私がトラトラトラの淵田です)」であることを伝道の武器にし、戦争は互いの無知から起こったとし、謝罪ではなく互いに理解するため戦争の愚かしさ、憎しみの連鎖を断つことを訴えた。 1966年、米国の市民権を得る。晩年は大阪水交会会長を務める。1976年5月30日、糖尿病の合併症により死去。入院中は、見舞いに訪れた来客とは日本語で会話していたが、当時アメリカに留学していた娘とは英語で会話していたという。葬儀は海軍関係者向けに神式、その他向けにキリスト教式に別々で執り行なわれた。
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