新教皇の誕生
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第1会期終了後、次の会期に向けて草案の見直しや議論の整理が進む中、かねてからガンを患っていた教皇ヨハネ23世が1963年6月3日、会議の終結を見ることなくこの世を去った。6月21日、後継の教皇にパウロ6世が選出され、翌6月22日のラジオ・メッセージで公会議の継続を宣言した。 教皇が第2バチカン公会議の第2会期を1963年9月29日に開会すると予告すると、世界の公会議教父たちは様々な草案の研究を再開した。8月26日から同29日まで、ヨーロッパ同盟の司教たちのイニシアティヴでドイツのフルダに集まり、第2会期の進め方を準備するフルダ会議(Fulda Conference)が開かれる。 1963年9月12日付けのティスランへの手紙によると、第2会期開会に先立ち、教皇パウロ6世は次のことを定めた。 定数4人の運営委員 moderatores の設定 公会議の議長団を拡大(定数を 10人から12人に増員)、その職務範囲を公会議運営手続上の課題に限定 非キリスト教者との対話の窓口を務める事務局の設置 広報委員会の設置。一般信徒代表の公会議参加を、傍聴人として承認 非カトリック信者の傍聴人席の増設 などであった。 指名された4人の運営委員は、進歩派のデフナー、スーネンス、レルカノ、中道派のアガジャニアンであった。こうして自由主義者が公会議の主導権を握った。この運営委員会は、教皇庁からの介入の余地を抑える目的があった。
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