新教義派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:08 UTC 版)
ガッデラーが普遍史を放棄した世界記述に転向する背景には、聖書の批判的研究の報告がある。1753年ジャン・アストリュク(en)は、「モーセ五書」は複数のグループによる記述が統合されたものと発表し、モーセ一人の著作だという考えを否定した。その根拠には、五書で使われる神の名にはヤハウェとエローヒームの2種類がある点を挙げた。彼の研究を継ぐ一派がドイツで「新教義派」となった。特にゲッティンゲン大学は宗派的論争や神学部による他学部への干渉を禁じる方針を採ったために、自由な論議が可能となった。 28歳で同大学に招聘されたヨハン・ダーヴィト・ミハエリス(1717年 - 1791年)(en)は、1770年から1775年にかけて発表した『モーセの律法』にて、古イスラエルの風土や歴史的条件を聖書解釈に加える試みを行った。そして、「モーセ五書」はアブラハム以降に砂漠の遊牧民族として成立した集団が、エジプトで国家を知り、その後農耕民族化して新国家を建設するに至る過程と、それらの中で必要な律法を纏めたものという結論に達した。つまり、モーセの律法はイスラエルが経験した環境において有効だが、成立過程も環境も異なる諸民族に適用する行為は間違いだと言い切り、聖書の普遍性を否定した。 ミハエリスはガッテラーの同僚であり親友の間柄でもあった。彼の「モーセ五書」研究に代表される新教義派の思想は後の歴史学思想に、普遍史否定という大きな影響を及ぼした。
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