キスカ島撤退作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 17:49 UTC 版)
1943年(昭和18年)3月に横須賀に戻り再び南方に出撃するが、5月12日、アッツ島の戦いが始まり、伊24は第五艦隊を基幹とする北方部隊に編入となる。アッツ島守備隊(山崎保代部隊長)は激しく抵抗したが全滅し、キスカ島守備隊の救出が図られる。キスカへの輸送に成功していた伊31(井上規矩艦長)は、すでに行方不明(のち撃沈と判明)となっていた。花房は千島列島の幌筵から出撃したが、井浦祥二郎軍令部潜水艦担当部員によれば、目的はアッツ島守備隊の最後の連絡員をチチャコブ湾(アッツ島)から収容するためであったという。花房は3度にわたり接近を試みたが、連絡員の姿はなかった。その後キスカ島周辺海域の偵察に向かったが、6月11日、第1期キスカ島撤退作戦に参加するため幌筵へ戻るよう命ぜられ、その命令受託の反応を最後に消息を絶ち、同日キスカ島付近で米海軍駆潜艇の攻撃により撃沈され、総員104名が戦死した。
※この「キスカ島撤退作戦」の解説は、「花房博志」の解説の一部です。
「キスカ島撤退作戦」を含む「花房博志」の記事については、「花房博志」の概要を参照ください。
キスカ島撤退作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 16:30 UTC 版)
寺本(大尉)が着任した頃の「伊156」は、第十九潜水隊に属す練習艦として潜水艦乗員の訓練を行っていたが、5月12日にアッツ島の戦いが始まり、第十九潜水隊は北方部隊に編入された。古宇田武郎少将を指揮官とする北方潜水部隊は、キスカ島守備隊に対する物資輸送や、兵員の撤収作戦を担当し、寺本の「伊156」は6月16日にキスカ島に到達。物資5tの揚陸と人員60名の救出に成功した。その6日後に「伊7」を喪失したことによって潜水艦によるキスカ島撤退作戦は中止となり、「伊156」は26日に呉に帰還した。第十九潜水隊は28日に連合艦隊隷下を離れている。
※この「キスカ島撤退作戦」の解説は、「寺本巌」の解説の一部です。
「キスカ島撤退作戦」を含む「寺本巌」の記事については、「寺本巌」の概要を参照ください。
キスカ島撤退作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 07:14 UTC 版)
同年12月には「伊175」潜水艦長に補された。同艦は接触事故で損傷を受けており、修理完了後の1943年(昭和18年)2月に第十二潜水隊へ編入となる。5月12日、米軍がアッツ島に攻撃を開始し、第十二潜水隊は北方部隊に編入された。6月、北方潜水部隊指揮官古宇田武郎少将は、潜水艦15隻(実際は13隻)によるキスカ島への物資輸送と人員撤収を実施する。しかし潜水艦部隊のキスカ島撤退作戦は、「伊24」(花房博志艦長)、「伊9」は消息不明となり、「伊156」は荒天による損傷のため輸送を取りやめ、その他の潜水艦も霧中砲撃や哨戒艇の追跡を受けるなど困難な状況であった。田畑の「伊175」は6月17日に物資16tの揚陸、人員70名の撤収に成功したが、この後に成功したのは「伊2」(板倉光馬艦長)のみである。
※この「キスカ島撤退作戦」の解説は、「田畑直」の解説の一部です。
「キスカ島撤退作戦」を含む「田畑直」の記事については、「田畑直」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書からキスカ島撤退作戦を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- キスカ島撤退作戦のページへのリンク