カール・ハウスホーファー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 15:33 UTC 版)
「戦略地政学」の記事における「カール・ハウスホーファー」の解説
カール・ハウスホーファーの地政学は、ラッツェルとチェーレンの理論を発展させたものである。後者の2人が地政学を領域の組織体としての国家を指導者に使役させるためのものとして考えていたのに対し、ハウスホーファーのミュンヘン学派では、戦争と帝国の設計に関連する地理学が特に研究された。それにより、それまでの地政学者らの行動規範は、生存圏と世界権力への行動ドクトリンへと変貌した。 ハウスホーファーは地政学を「最も広い意味での土地に対する土壌、Reichの境界内の土地だけでなく、より広範なVolkと文化的領土に対する権利を保護する義務」と1935年に定義した。文化そのものが、ダイナミックな拡大を最も助長する要素であると考えられていた。軍事力や商業力に頼るだけでは難しくとも、文化は拡張に最適な地域の指針となり、拡張を安全なものにすることができた。 ハウスホーファーにとって、国家の存在は生存圏に依存しており、その追求がすべての政策の根底になければならない。ドイツは人口密度が高かったのに対し、旧来の植民地保有国は人口密度が低かった。ドイツは資源の豊富な地域への進出が事実上の使命となっており、緩衝地帯や影響力のない国を国境沿いに置くことでドイツは守られるものと考えられた。 この必要性は、小国の存在は国際体制の政治的後退と無秩序の証拠であるとするハウスホーファーの主張とリンクしていた。ドイツを取り巻いている小国家は、極めて重要なドイツの秩序の中に取り込まれるべきであった。これらの国家は、(たとえ大規模な植民地を維持していたとしても)実質的な自治を維持するには小さすぎて、ドイツ国内での保護と組織化によってより良い結果が得られるだろうと考えられていた。 ハウスホ―ファーは、ヨーロッパにおける、ベルギー・オランダ・ポルトガル・デンマーク・スイス・ギリシャ・オーストリア-ハンガリーの「分裂した同盟」が、自らの主張を強化していると見ていた。 ハウスホーファーとミュンヘン学派の地政学は、最終的には、1914 年のドイツ国境の回復と1897年に外務大臣ベルンハルト・フォン・ビューローが唱えた世界政策「陽のあたる場所」をはるかに超えて、生存圏とアウタルキーの概念を拡大していくことになる。彼らは、新ヨーロッパ秩序、新アフロ・ヨーロッパ秩序、そして最終的にはユーラシア大陸全体の秩序を目標とした。この概念は、アメリカのモンロー主義と、国家と大陸の自給自足の理論に由来する、パン・リージョンとして知られるようになる。これは、植民地を求める動きを前向きに再構築したものであり、地政学的には経済的な必要性としてではなく、威信の問題として、また古い植民地大国に圧力をかけるためのものであると考えられていた。基根本的な原動力は、経済的なものではなく・文化的・精神的なものであった。 パン・リージョンは経済的な概念だけでなく、戦略的な概念でもあった。ハウスホーファーは、ハルフォード・マッキンダーが提唱したハートランドの戦略的概念を認めた。ドイツが東欧、ひいてはロシアの領土を支配することができれば、敵対的なシーパワーを封じる戦略的地域を支配することができる。イタリアと日本との同盟は、ドイツのユーラシア大陸における戦略的支配力をさらに強化し、これらの国が孤立したドイツを守る海軍力となることを意味する。
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