カルロス・クライバーとの確執
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「フェルディナント・ライトナー」の記事における「カルロス・クライバーとの確執」の解説
ライトナーが監督を務めていたシュトゥットガルト歌劇場で、カルロス・クライバーは客演指揮者を務めていたが、両者は良好な関係ではなかったとされる。例えばクライバーは、歌手が練習を欠席することについてライトナーに直接苦情を言った一方、ライトナーはクライバーがシュトゥットガルトで『ルル』を指揮することに対して難色を示し、この公演を実現させなかった。 また、ライトナーがクライバーの代役を拒否したことで両者の関係はより険悪になった。 1966年、クライバーはエディンバラの音楽祭で『ヴォツェック』を2回指揮することになっていた。1回目の公演は大成功で、クライバー自身は歌手の出来に不満を持ったものの満員札止めという状況であった。2回目の公演はラジオでの中継が行われる予定であったが、リハーサルの段階でそれを知ったクライバーは怒り、指揮をしないと宣言してしまった。興奮状態となったクライバーは医師の診断を受けるほど体調を崩し、結局この公演は指揮しないことになった。 『ヴォツェック』を指揮した経験のあるライトナーはこの公演の代役を頼まれたが、クライバーの解釈を検討する時間がないという理由で拒否した。ライトナーは、説得に訪れたハンローネ・シュルツ=ピカルトに対し「どんなご用向きかわかります。お引き取りください。天才児の代役はお断りです」と述べたとされる。また、ライトナーは「クライバーは当日の朝まで元気だった」とも述べたが、このような態度は新聞で非難され、歌劇場の評議会でもライトナーは糾弾された。 コントラバス奏者のハンス=ヨアヒム・ヴィルヘルムは、この事件によってただでさえピリピリしていた2人の関係はより険悪なものになったと語っている。同じく、ライトナーの義理の娘であったソプラノ歌手のルート=マルグレード・ピュッツも、ライトナーは次第に怒りっぽくなり、自らの地位を脅かそうとする者を嫌うようになったと述べている。また、クライバーの伝記を執筆したアレクサンダー・ヴェルナーは、ライトナーはシュトゥットガルトで30回も『ヴォツェック』を指揮したのに、クライバーがたった1回で成功を収めたことに苦い思いをしていたと記している。なお、ライトナーはインタビューの場で「この劇場で音頭を取るのはクライバー氏か私か」と口にしたとされる。 歌劇場の評議会、歌手、オーケストラ団員たちもこの件について意見が分かれ、クライバーは辞任の瀬戸際まで追い込まれたが、歌手のヴォルフガング・ヴィントガッセンの擁護により、結局クライバーは歌劇場に残った。ライトナーもこれを受け入れた。 ライトナーは1969年にシュトゥットガルトを去ったが、この原因の一つはクライバーとの確執であると噂された。ルート=マルグレード・ピュッツはシュトゥットガルト新聞(ドイツ語版)の記者ヴォルフラム・シュヴィンガーが両者の対立を煽り、クライバーを新しい音楽監督として期待する世論を作り出したと述べている。なお、ライトナーの辞任後、オーケストラ団員たちから3分の2以上の賛成票を集めたにもかかわらず、クライバーは責任を伴う職には就きたくないと主張し、シュトゥットガルトの監督には就任しなかった。
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