エピソード・持病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 15:39 UTC 版)
糖尿病の持病があり、妻も病弱である。無理だと断ったのに強引に外相にされた際には、「とても目前に迫るフィレンツェのサミットに慣例通り夫婦でいける状態じゃないから」と別の口実をみつけて辞めている。会津若松で自民党の支部大会の講師控室で座っていた伊東が、突然低血糖の発作で半昏睡状態になった際には、秘書が手慣れた姿で角砂糖(糖分)を補給し、すぐに回復している。 1980年、大平正芳首相の死去に際し内閣総理大臣臨時代理を務める。臨時代理に事前指定されていたのは伊東だけであったので伊東が就任するほかなかったにもかかわらず、親友の死に際して臨時代理に就任することを渋り、同じ宏池会の田中六助に説得されてようやく就任した。内閣総理大臣代理に就任後も、周囲からいくら勧められても首相執務室には入らずに内閣官房長官執務室で仕事を続け、閣議でも決して首相の席には座らなかった。大平が就いていた宏池会会長についてもただちに鈴木善幸が継承することには異を唱え、当面は鈴木が会長ではなく代表の肩書で派を率いることで収まった。 大平の死の遠因となったハプニング解散を引き起こすきっかけを作った福田赳夫・三木武夫を強く嫌っていた。竹下登の後継選びに福田の名前が挙がった際にも強く反対している。 1989年、辞任した竹下登の後継として自由民主党総裁に推されるも、「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ」と就任を頑なに固辞した。「ポスト竹下」を固辞したことで「政治家にとって首相の地位はその経綸を実行しうる最大のポストなのに、首相になりたくないという政治家とは一体なんなのか」と批判されたこともあるが、首相を固辞した理由には持病の糖尿病の悪化もあったという。また、竹下らが本当に自分に「経綸を実行」させてくれるかどうか信用できないという面もあったとされる。 自民党内の実力者でありながら金権政治には一切無縁のクリーンさで知られ、そのために「ポスト竹下」の候補の1人に数えられた。伊東の自宅はバブルの頃でさえ雨漏りするほど生活は質素であった(この件に関して首相を固辞した当時「AERA」で特集が組まれた)。 死去の翌年(1995年)に「伊東正義先生を偲ぶ」(編集・発行:伊東正義先生回想録刊行会)という本が発行された。 元秘書に元衆議院議員の斎藤文昭や、元会津若松市長の山内日出夫などがいる。 日本エジプト友好議員連盟初代会長、日本パレスチナ議員連盟会長を務めるなどアラブ世界との関わりも深かった。 渡部恒三(同じ会津出身)によると東京佐川急便事件で36人ぐらい政治家の名前が出たが自民党の幹部でお金を貰わなかったのは伊東と渡部だけで渡部の場合は初めから持ってこなかったという。 趣味は観劇。森光子の熱烈なファンで好きな理由は「大女優なのに庶民的だから好きなんだ」と答えている。
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