エデンの場所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 02:16 UTC 版)
エデンがどこであったのかについては古来様々な場所が主張され、議論されてきた。しかしその中には『創世記』に典拠が認められないものも少なからずある。 多くの説では、「エデンから流れ出た」という記述から、川の上流にエデンがあったと考え、チグリス・ユーフラテス川の源であるアルメニア付近のザグロス山脈一帯(特にヴァン湖周辺)にあったとしている。ユダヤ教の伝承によれば、エレバンにあったという。エレバンの近くにはノアの箱舟が流れ着いた場所との伝説があるアララト山がある。 その他、紀元前3000年代〜紀元前2000年代にメソポタミア-インダス間交易の要衝として繁栄した古代都市ディルムンがモデルとする説がある。ディルムンの位置についても諸説があり不明だが、バーレーンのバーレーン要塞はその首都の跡地であるとする説がある。 他に、紀元前26世紀(紀元前2600年 - 前2500年頃)、メソポタミアにおいてラガシュとウンマが「グ・エディン(平野の首の意)」もしくは「グ・エディン・ナ(平野の境界の意)」という肥沃な土地 (Gu-Edin) をめぐって戦争を繰り返しており(エアンナトゥム、エンメテナなど参照)、このどちらかがモデルであるとする説もある。 他に環境考古学や宇宙考古学(衛星考古学)などの視点から、7万年前〜1万2000年前の最終氷期には海面はもっと低かったため、現在は海の底となっているペルシャ湾に比定する説も有る。 考古学者ジュリス・ザリン(Juris Zarins)の1987年のスミソニアン誌に掲載された見解「Has the Garden of Eden been located at last?」や、考古学者ジェフリー・ローズ(Jeffrey Rose)の2010年の論文「アラブ-ペルシャ湾オアシスの人類先史新仮説(New Light on Human Prehistory in the Arabo-Persian Gulf Oasis)」が有名である。 2万4000年前から1万4000年前頃まで1万年もの間、推定海面はホルムズ海峡の海底より低い水準にあり、そのため、オマーン湾の水位がホルムズ海峡の海底より低くなり、ペルシャ湾の海水は川の流れのようにオマーン湾へと流れ出し、湾内には干上がった広大な盆地=ガルフ・オアシス(「ガルフ・オアシス」はローズによる命名)が出現したと考えられる。ガルフ・オアシスは、海跡湖(淡水湖)や盆地の奥から出口に向かう川(ウル・シャット川)や湧き水に潤されて、湿地帯や豊かな植生に覆われた草原や森が広がっていたと考えられる。 1万8000年前の最終氷期極大期には寒冷化と乾燥化が進み、ガルフ・オアシス周辺の環境が乾燥したため、乾燥からの避難地として、人類は水と狩場を求めてガルフ・オアシスに集まり、狩猟採集生活を送っていたと想像される。 やがて最終氷期が終わり温暖化が始まると、海面は上昇に転じ、1万4000年前(紀元前1万2000年)頃からガルフ・オアシスに海水が侵入(海進)、1万年前(紀元前8000年)頃には中心部の淡水湖が海とつながり消滅、人類は真水を求めて、北西の河口や北岸南岸の湧出地に移動、8000年前(紀元前6000年)頃には中心部は湾となるものの、湾の周囲にはまだわずかに陸地が残っていたが、6000年前(紀元前4000年)頃にはその陸地も水没し、ほぼ現在のペルシャ湾と同じになった。海面上昇はそこで止まらず、現海面より1~2m高い状態が3000年前(紀元前1000年)頃まで続いたと考えられている。現在では湾の北西端から内陸200㎞奥にある古代都市エリドゥが栄えていた頃は、現在の汀線から内陸150㎞ぐらいまでは海につながっていた可能性がある。 ベロッソスの「バビロニア誌」の伝えるところでは、エリュトラー海(エリュトラー海の範囲は広いが、この場合はペルシャ湾のことと考えられる)の海中からやってきたオアンネスという半魚人が人類に一週間で文明を授けたとされている。これはかつては陸地であり、今は水没した、ペルシャ湾のガルフ・オアシスからメソポタミアに人類が移住した記憶の名残かもしれない。
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