エジプト史の圧縮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:08 UTC 版)
エジプト史に対して、ニュートンは独自の解釈を加えて普遍史との整合を持たせた。普遍史のエジプト問題は、マネトの『エジプト史』に対するエウセビオス以来の解釈が引き継がれ、根本的な解決を見ていなかった。ルネサンス期には古典復興運動からヘロドトスの『歴史』第2巻やシチリアのディオドロスの『歴史文庫』第1巻などがラテン語訳されるなど広まり、歴史研究の題材となっていた。 ニュートンはヘロドトスやディオドロスの著作を検討し、エジプトの3人のファラオ、オシリス、バッカス(ディオニューソス)、セソストリスを伝える故事に、征服事業と弟の反乱や帰国後の内政整備など共通部分が多い点に着目した。そして、聖書「列王記上」(11-14章)に登場するエジプト王シシャクが、建国当初のユダ王国初代レハベアムの時代に初めてエルサレムに侵攻したという記述と対比させ、3人のファラオは実は同一人物で、それは聖書に言うシシャクだと論じた。このように、エジプト史は単一の出来事を複数あったように伝えていると分析した。さらにこのオリシスと息子のホルスが死後神格化されたというヘロドトスの記述を根拠に、エジプト史の「神々の時代」とはファラオの死後のことを述べていると説き、事実上「神々の時代」と「人間の時代」を重ね合わせた。 次に、初代メニ(メネス)以下の「人間の時代」について、アルゴナウタイ遠征譚を基準年としたギリシア・ローマ史解析と同様の手法を適用して試算した結果、エジプト第1王朝は紀元前946年に始まったと定めた。しかし、これではヘロドトスが伝えるセティまでの11340年間が収まらない。この矛盾についてニュートンは、事跡が記録されていない王は実在しなかったと宣言し、初期のファラオ329名を削除する挙に出た。 これらの理論と考察から、ニュートンはエジプト王朝史を大胆に解釈し直した。それによると、初代の王メニがメンフィスを建設し、また下エジプトで勃発した反乱を鎮圧した。この時ダナオスは混乱を避けてギリシアに逃れ、造船技術を伝えた。こうして建造されたアルゴー船を用いてアルゴナウタイ遠征が実行され、その影響からエジプトは諸外国への支配力を喪失した。以後、国内のみの治世において、モイリス、ピラミッドを建設したクフ(ケオプス)などヘロドトスが事跡を記したファラオのみが実在した。結果エジプト史は大幅に短縮されてヘブライ人の歴史よりも短くなり、普遍史の枠内に収まることになった。
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