イラク空軍の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 20:33 UTC 版)
「イラン・イラク戦争における航空戦」の記事における「イラク空軍の活動」の解説
開戦当初、イラク軍は前線に近い航空基地や陸軍駐屯地及び石油関連施設に対して低高度からの小規模かつ散発的な出撃ばかりで大規模な制空権確保作戦を実施しなかった。例に挙げればテヘラン・メヘラーバード国際空港に対する爆撃は戦闘機2機のみで反復攻撃も無かった。MiG-21の航続距離は短く内陸奥深くに攻撃することは困難であったがTu-22やIl-28など長距離作戦機をヨルダン国境周辺の飛行場に退避させイラン空軍に対する航空撃滅戦は実施されなかった。前線の地上部隊に対する近接航空支援も不活発であった。 防空部隊に対する攻撃は、もともと規模が小さいイランの早期警戒網と航空指揮統制網を崩壊させ以後の爆撃行は容易になった。1986年以降はレーダーサイトと石油施設に対する攻撃を激化させ電子戦と戦略攻撃を強化した。 1984年時点でイラク空軍の稼動機は350機から400機に対してイラン空軍は80機程度と優勢であった。同年春のイラン軍のバスラ攻撃の戦力集結の際は最寄の飛行場から数分で上空に達するにもかかわらず航空攻撃は実施されなかった。イラク軍の近接航空支援はヘリコプターが割り当てられていた。この頃にはインド人教官60名を招聘し低高度爆撃の教育を受けた。パイロットの技術的問題もあったが陸軍・空軍を横断的に結ぶ指揮連絡体制が無く空軍の偵察写真が陸軍に送られても計画的な攻撃は行なわれなかった。空軍側の問題点として戦略任務と戦術任務を分割して責任を持ち、飛行場ごとに担当区域が設定され地上部隊との連携のみならず空軍同士でも連携は不十分であった。 1985年2月下旬ごろからイラン各地に対する爆撃を激化させた。2月20日にはイラン・アーセマーン航空のフォッカー F27を撃墜、同乗していた革命防衛隊のマハラチ師をはじめ国会議員8名を含む乗客乗員40全員が死亡。3月に入ると本格的な戦略攻撃方針を設定した。 燃料枯渇を狙った製油施設に対する攻撃 軍需輸送の麻痺を狙った鉄道・道路の橋梁に対する攻撃 外貨収入を断つために石油輸出施設に対する攻撃 の3点を挙げ、3月18日にエスファハーン郊外の製油所を爆撃、5月7日にテヘラン製油所を、5月14日にフーゼスターン州にあるハフト・タッベ駅に停車中の列車を攻撃した。また石油関連施設と平行してタンカーに対する攻撃も強化された。 1987年2月12日から14日にかけてテヘランに爆撃を実行し、続いて各都市に対する爆撃も行なわれた。カルバラ第5号作戦の期間中の2月19日からの42日間でイラク空軍は262ソーティにおよぶ都市爆撃を実施し、イランの損害は65の市町村、死者3,035名にのぼった。イラクに近い大都市エスファハーンは重点攻撃目標となった。
※この「イラク空軍の活動」の解説は、「イラン・イラク戦争における航空戦」の解説の一部です。
「イラク空軍の活動」を含む「イラン・イラク戦争における航空戦」の記事については、「イラン・イラク戦争における航空戦」の概要を参照ください。
- イラク空軍の活動のページへのリンク