アルメニアとイベリアの反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:05 UTC 版)
「ペーローズ1世」の記事における「アルメニアとイベリアの反乱」の解説
コーカサスではサーサーン朝の統治下にあったアルメニアとイベリア(英語版)もアルバニアと同様にゾロアスター教を信奉するサーサーン朝の支配に不満を抱いていた。アルメニアではヤズデギルド2世がキリスト教徒の貴族にゾロアスター教への改宗を強いて官僚機構に組み込む政策をとったが、その結果、451年にアルメニアの軍事指導者のヴァルダン・マミコニアン(英語版)に率いられた大規模な反乱を引き起こすことになった。サーサーン朝はアヴァライルの戦い(英語版)で反乱軍を破ったものの、反乱の影響はいまだに残っており、緊張が増し続けていた。一方、イベリアではペーローズ1世がアルメニアとイベリアの境界地帯に位置するグガルク(英語版)の総督(ビダフシュ(英語版)の称号で知られる)のヴァルスケン(英語版)に好意的な態度を示していた。グガルクを支配するミフラーン家(英語版)に属していたヴァルスケンはキリスト教徒として生まれたが、470年にサーサーン朝の宮廷に赴いた際にゾロアスター教へ改宗し、忠誠の対象をキリスト教国のイベリアの君主(コスロー朝(英語版))からサーサーン朝へ移していた。また、改宗への褒美としてアルバニア総督の地位を得るとともにペーローズ1世の娘と結婚していた。ヴァルスケンは親サーサーン朝の立場を取り、最初の妻でヴァルダン・マミコニアンの娘であったシューシャニク(英語版)を含む家族の者をゾロアスター教に改宗させようとしたが、シューシャニクは改宗を拒否してヴァルスケンに殺害され、殉教者となった。ヴァルスケンの政策はイベリア王のヴァフタング1世(在位:447年または449年 - 502年または522年)にとっては受け入れ難いものであり、最終的にヴァフタング1世はヴァルスケンを殺害し、その後482年にサーサーン朝に対する反乱を起こした。また、ほぼ同時期にアルメニア人もヴァルダン・マミコニアンの甥にあたるヴァハン・マミコニアン(英語版)の指導の下で反乱を起こした。 同年、アルメニアのマルズバーンであるアードゥル・グシュナスプ(英語版)は反乱から逃れてアードゥルバーダガーン(英語版)に向かい、そこで7,000人の騎兵隊を組織してアルメニアに戻ったが、アララト山の北斜面側に位置するアコリでヴァハンの兄弟のヴァサク・マミコニアンに敗れて戦死した。その後、ヴァハンはサハク2世バグラトゥニ(英語版)をアルメニアの新しいマルズバーンに据えた。これに対しペーローズ1世はカーレーン家(英語版)のザルミフル・ハザルウフト(英語版)が率いる軍隊をアルメニアへ派遣し、さらにミフラーン家のサーサーン朝の将軍であるミフラーン(家名と同名)が率いる別の軍隊をイベリアへ派遣した。夏の間にミフラーンの息子であるシャープール・ミフラーン(英語版)の率いる軍隊がアケスガでアルメニアとイベリアの連合軍を打ち破り、この戦いでサハク2世バグラトゥニとヴァサク・マミコニアンが戦死した。その一方でヴァフタング1世は東ローマ帝国の支配下にあったラジカ(英語版)へ逃れた。また、シャープール・ミフラーンがイベリアで軍隊を指揮する役割を担っていたことから、ペーローズ1世はエフタルに対する戦争へ参加させるためにシャープールの父親のミフラーンを呼び戻していた可能性がある。 ヴァハンは残りの軍勢とともにタイク(英語版)の山中に撤退し、そこからゲリラ戦を展開した。シャープール・ミフラーンはアルメニアに対するサーサーン朝の支配を回復したものの、その後クテシフォンの宮廷に召還された。その結果としてヴァハンはアルメニアの首都であるドヴィン(英語版)一帯の支配を取り戻し、そこに要塞を築いた。483年にザルミフル・ハザルウフトに率いられたサーサーン朝の増援部隊がアルメニアに到着し、ドヴィンを包囲した。兵力ではるかに劣っていたヴァハンの部隊は敵軍に奇襲を仕掛け、マークー(英語版)に近いネルセアパテにおける戦闘でサーサーン朝軍を破った。そして再び東ローマ帝国との国境に近い山中に撤退した。ヴァハンは東ローマ帝国と衝突する危険を避けるためにサーサーン朝軍が撤退先まで追撃してこないことを願ったものの、ザルミフルは夜間の行軍の末にアルメニア軍の野営地を襲撃し、何人かの公女を捕らえることに成功した。ヴァハンとその部下のほとんどはさらに山奥へ撤退した。 しかしながら、その後の予期せぬ情勢の変化が戦局を大きく変えた。484年にエフタルと戦争中であったペーローズ1世が戦死(後述)したことでサーサーン朝の軍隊はアルメニアから撤退した。ペーローズ1世の兄弟で後継者となったバラーシュはヴァハンと講和してヴァハンにハザールベド(英語版)(大臣)の地位を与え、後にはアルメニアのマルズバーンに指名した。イベリアでも同様に和平が成立し、ヴァフタング1世は自身の手による統治を回復することができた。
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