アルメニアでの活動
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「アレクサンドル・ミャスニコフ」の記事における「アルメニアでの活動」の解説
翌1921年からミャスニコフはアルメニア共和国へ渡り、3月24日から5月21日までは革命委 (hy) 議長、同日から翌1922年2月2日までは人民委員会議議長および軍事人民委員、1921年4月21日からはロシア共産党中央委カフカース局 (en) メンバー、1921年5月29日からはカフカース赤旗軍 (ru) 革命軍事会議メンバーなどを歴任。アルメニア赤軍 (ru) やエレヴァン軍学校の設立にも関わった。1922年2月のアルメニア共和国憲法起草にも参加し、エレバン国立大学(英語版)の拡充や暴力的経済改革の抑制など、アルメニアの文化的・経済的発展にも大きな役割を果たした。1921年7月のカフカース局におけるナゴルノ・カラバフ帰属決定交渉では、ナゴルノ・カラバフのアルメニアへの帰属を訴えた。グルジア共和国のアハルカラキとバトゥミからアルメニア人を追放する動きが持ち上がった際には、それを阻止している。 ミャスニコフによる抜本的な経済改革により、大戦直後には飢餓と疫病が蔓延していたアルメニアは、1931年には工業・農業生産において戦前のレベルにまで回復した。ミャスニコフはまた、識字率の向上や劇場・美術館・図書館・映画スタジオ・音楽院など数々の文化施設の設立、そして親友テリアンのアーカイブやエチミアジン写本のモスクワからの返還にも役割を果たしている。在外アルメニア人の帰還問題にも注力し、その結果1921年から1925年までに地中海・中東方面から約2万人の在外同胞がアルメニアに帰還した。また、ミャスニコフの呼びかけに応じた帰還者にはアレクサンドル・タマニアン、ラチヤ・アチャリャン(英語版)、マルティロス・サリアン(英語版)、アレクサンドル・スペンディアリアン、ロマノス・メリキアン(英語版)、アラケル・ババハニアン(英語版)ら多数の知識人も含まれている。
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アルメニアでの活動
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「セルゲイ・ルカシン」の記事における「アルメニアでの活動」の解説
1921年3月、党中央委の指令によりルカシンはアルメニア社会主義ソビエト共和国に送られた(ルカシンは引き続きドン州での活動を希望したが、要請は却下された)。そして同月24日からはアルメニア革命委メンバー、5月19日から翌1922年4月29日まではアルメニア共産党(英語版)中央委責任書記・書記長に就き、1921年5月21日から12月まではアルメニア共和国国民経済会議(ロシア語版)および国民経済最高会議(ロシア語版)議長、1922年2月から1925年6月23日までは人民委員会議議長に就いた。 アルメニア共和国指導者としてルカシンは綿花・織物・ワイン醸造産業・鉱業の発展に着手し、任期中にはアラヴェルディ(英語版)・カパンの復興、アララト運河・サルダラパート(アルメニア語版)運河・シラク(アルメニア語版)運河 (hy) の復旧・建設による灌漑ネットワークの拡大、レニナカン紡績工場の建設、そしてエレヴァン水力発電所 (hy) の建設による電化が開始された。また、前指導者アレクサンドル・ミャスニコフの時代に起こった中東とメソポタミアからの在外アルメニア人の帰還の波も維持された。
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