アラン・ドロンとの出会い フランスへ
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「ロミー・シュナイダー」の記事における「アラン・ドロンとの出会い フランスへ」の解説
1958年、母マグダの出世作『恋愛三昧』のリメイク『恋ひとすじに』(仏・伊合作)で無名のアラン・ドロンと共演。ロミーはフランス語が話せず、ドロンもドイツ語が分からなかったうえ、ロミーはドロンを悪趣味で気障な男だと感じ、ドロンはロミーを胸くそ悪いやつだと思い、初対面の2人のお互いの第一印象は極めて悪かった。しかしパリとウィーンで行われた撮影の間に2人の映画の中での恋は本物となる。ドロンはロミーの無垢・純粋さに、ロミーはドロンの無鉄砲さ・反逆精神に惹かれた。お互いの中に自分にないものを見出したのである。 「シシー」イメージ以外の企画がないドイツ映画界への幻滅と、何かと干渉しようとする母・継父への成長したロミーの反抗も重なり、翌1959年ロミーはパリのドロンのもとへ出奔、同棲する。体裁を気にしたロミーの母・継父との妥協策として59年3月、ロミーとドロンはスイス・ルガーノで婚約をマスコミに向け発表するが、ドイツと家族を捨て、清純な乙女・お姫さま女優というファンのイメージを裏切ったロミーは、これ以後ドイツのマスコミには裏切り者扱いされ、その確執は彼女の死まで解けることはなかった。 ドロンはルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』(1960年)で一躍脚光を浴び、スター街道を駆け上っていくが、ドイツでの人気が落ちたロミーは逆に仕事が減ってゆく。 1960年秋、『若者のすべて』(1960年)に主演したドロンがルキノ・ヴィスコンティ監督をロミーに引き合わせたことが転機となる。ヴィスコンティは自身が演出する舞台『あわれ彼女は娼婦』(ジョン・フォード作)への出演をロミーに依頼。まだ初歩のフランス語しか話せないロミーが、パリの大劇場で、しかも初舞台を踏むというのは無謀とも言えたが、ロミーは昼夜を徹してフランス語の猛特訓を受け、厳しいヴィスコンティの演出に耐えた。そして1961年3月からのテアトル・ド・パリでの舞台で、ロミーはドロンと愛し合う兄妹を演じる。舞台そのものは賛否両論であったが、ロミーの演技は高く評価され、ロミーは初めて女優としての充足感を得る。 続いて同じヴィスコンティ監督によるイタリア映画『ボッカチオ'70』(第3話「仕事中)に主演。夫と寝るごとに金を要求する妻、というセクシーな役で、ヌードシーンが話題となる。続くフランツ・カフカ原作『審判』(1962年)では監督も務めたオーソン・ウェルズと共演。ウェルズ演じる弁護士の看護婦兼秘書兼愛人のような女、というこちらもドイツ時代とは対照的な官能的な役を演じる。 『ボッカチオ'70』がアメリカでも好評で、コロンビア ピクチャーズ社と契約、カール・フォアマン監督『勝利者』(1963年)でハリウッドに進出。オットー・プレミンジャー監督『枢機卿』(1963年)ではゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされ、実父のヴォルフ・アルバッハ・レッティとも共演をはたしている。 しかし、婚約者のドロンとは忙しくなるにつれすれ違いが重なり、ロミーが『ちょっとご主人貸して』(1963年)をハリウッドで撮影中に破局。ドロンは1964年8月、ナタリー・ドロンと結婚する。続く『何かいいことないか子猫チャン』(1964年)も成功したとはいえず、ロミーはヨーロッパに戻った。
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