アジュラン・ポルトガル戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:29 UTC 版)
「アフリカの軍事史」の記事における「アジュラン・ポルトガル戦争」の解説
ヨーロッパの大航海時代はヨーロッパの後の超大国となるポルトガル海上帝国を当時外国との貿易の繁栄を謳歌していた東アフリカの沿岸にもたらした。裕福な東南の都市国家のキルワ、モンバサ、マリンディ、Pate及びラムはポルトガルによって全て組織的に占領・略奪された。トリスタン・ダ・クーニャはその後アジュラン地域に目を付け、バラワの戦いが起きた。長期にわたる交戦の後、ポルトガル兵は都市を焼き払い略奪した。しかし地元人と兵士による激しい抵抗によりポルトガルは都市の恒久的占領に失敗し、内陸に逃げていた住民は最終的には戻って都市を再建した。バラワの後、トリスタンは東アフリカの沿岸で最も豊かな都市モガディシュへ出航したが、バラワで起きたことについての話が広まっており、大規模な軍隊が動員されていた。多数の騎兵、兵士及び戦艦が防衛拠点につき都市を守っていたにも関わらず、トリスタンは未だに突撃し都市を征服すると決めたが、戦闘で敵と交戦すれば確実に敗北することを恐れた全ての士官と兵士が反対した。トリスタンは忠告を聞き入れ、代わりにソコトラ島へ出航した。戦いの後バラワの都市はすぐに攻撃から復旧した 次の数十年間にわたり、ソマリアとポルトガル間の緊張は高まったままであり、ソマリアの船員とオスマン帝国の私掠船との接触の増加はポルトガルを悩ませ、モガディシュに対しJoão de Sepúlveda指揮下の懲罰遠征隊を送ったが成功しなかった。インド洋でのポルトガルに対するオスマン帝国とソマリアの協力は1580年代に頂点に達し、ソマリアの沿岸都市のアジュランの顧客はポルトガル統治下のアラブ人とスワヒリ人に対して哀れみを覚えはじめ、ポルトガルへの共同遠征を求めてトルコの私掠船「Mir Ali Bey」に特使を送った。彼は同意し、ソマリア艦隊に参加し、南東アフリカのポルトガルの植民地への攻撃を開始した ソマリアとオスマン帝国の攻勢は、Pate、モンバサ及びキルワなどの一部の重要都市からポルトガルを追い出すことに成功した。しかし、ポルトガルの知事はポルトガル領インドに大規模なポルトガル艦隊を要請する特使を送った。この要請に応えたことでムスリムのそれまでの攻勢が一転して守勢に逆転した。ポルトガル艦隊は喪失した都市の再奪還に成功し、彼らの指導者達への懲罰を開始したが、インド洋での都市の自治権を保証し、モガディシュへの攻撃を控えた。アジュアンのソマリア軍は最終的に軍事的にはポルトガルを敗北させ、オスマン帝国もまたソマリアとの経済的パートナーを維持した。16世紀と17世紀を通じて、ソマリ・スルタンは相次いでインド洋でのポルトガルの経済的独占に反抗し、オスマン帝国の様式に倣った新しい貨幣を採用することでポルトガルに対して経済的独立性の態度を主張した
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