ないとうじょうそうとは? わかりやすく解説

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ないとう‐じょうそう〔‐ヂヤウサウ〕【内藤丈草】

読み方:ないとうじょうそう

[1662〜1704]江戸前期俳人蕉門十哲一人通称右衛門別号、懶窩(らんか)・仏幻庵など。尾張犬山藩士。出家して京にのぼり、芭蕉師事句風軽妙洒脱。著「寝ころび草」など。


内藤丈草

読み方:ないとう じょうそう

俳人尾張犬山藩士。名は本常、通称右衛門、号は仏幻庵・懶窩等。27才で家督異母弟譲り上洛旧知中村史邦紹介松尾芭蕉入門した。師歿後もその遺風終生忘れず蕉門俳人のなかでことに純粋であった蕉門十哲一人編著に『寝ころび草』『驢鳴』等がある。元禄17年(1704)歿、43才。

内藤丈草

ないとうじょうそう

寛文2年(1662)~元禄17年(1704.2.24))

内藤丈草

尾張犬山藩内藤左衛門長子として生まれる。幼くして母に死別し継母に はたくさんの子供産まれ丈草注がれるべき両親愛情薄かった。このトラウマは、丈草生涯つきまとうこととなる。そもそも内藤左衛門は、元来越前福井の貧乏武士だったのだが、源左衛門の妹、丈草叔母犬山藩江戸屋敷奉公中に藩主成瀬正虎お手がついて一子をもうけ、この縁で、特に功も無いまま犬山藩取り立てられたものである。このタナボタ幸運長続きせず、藩主代替わり叔母松壽院死によって瓦解する丈草従兄弟に当たる松壽院一子直龍は尾張徳川家養子出されたが狂疾口実蟄居させられ失脚する及んで内藤家没落丈草は、この直龍に仕えていたので、この悲劇まともに受けることになったこういう度重なる不運に人生はかなさ知った丈草は、武士捨てて遁世近江松本棲む蕉門には元禄2年元犬藩士でもあった仙洞御所勤める史邦を通じて去来経由入門ぃたものと思われる。 後に、膳所義仲寺境内無名庵に住み芭蕉近江滞在中は芭蕉身辺充実した時間過ごした。『初蝉』・『有磯海』などに入集。 詩禅一致の道をひたむきに求めながらも、芭蕉の死 後、自らの死までの10年間をひたすら師の追善生涯捧げ世を去った享年43歳。

丈草の代表作



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