『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:34 UTC 版)
「クロード・レヴィ=ストロース」の記事における「『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959」の解説
1948年頃に完成した『親族の基本構造』を携えて、フランスへと帰国する。1949年に『親族の基本構造』は論文審査を通過し、フランスにおいて公刊される。神話学者ジョルジュ・デュメジルの紹介により、高等研究実習院に職を得て、未開社会における宗教をめぐるセミネールを、この後、コレージュ・ド・フランスへの社会人類学講座創設にともなってのこのセミネールが発展的に解消されるまで担当する。この間、マルセル・モースの著作集『社会学と人類学』の編集にたずさわり、「浮遊するシニフィアン」の概念などを提起しつつ、モースを彼自身の構造人類学の先駆者として再読する長大な序文を執筆するなど、自身の方法論である構造人類学をいわばフランス社会学派の相続者のひとつとして認知させる方向で研究をすすめていく。 1951年、1952年の2度にわたってコレージュ教授選へと立候補するも、学閥間の争いの結果として落選する。1958年の再々度の立候補までの間、みずからの方法論を冠した初めての論文集『構造人類学』(1958年)に所収される民族学・社会人類学関連の諸論文を執筆し研究活動を続けるかたわら、ユネスコの反人種主義キャンペーンのための小冊子『人種と歴史』(1952年)を執筆したほか、メルロ=ポンティとサルトルが共同で編集していた論壇誌『タン・モデルヌ(現代)』誌でも「火あぶりにされるサンタクロース」をはじめとして幅広い論考を世に問うており、さらには1955年の自叙伝的色彩をもった民族誌風の著作『悲しき熱帯』の刊行によりセンセーショナルな評価を獲得する。『基本構造』によって学会内部で著名であった彼の名前は、一気に世間に知れ渡ることになった。 3度目の立候補で、親友の哲学者であるメルロ=ポンティの尽力をはじめ、デュメジルやバンヴェニストらの後押しもあって、1959年からコレージュ・ド・フランスの教授に選出される。この選出により彼が担当することになる講座は、新設の社会人類学講座であり、コレージュ・ド・フランスに人類学系の講座が設けられたのはこれが最初であった。 またこの社会人類学講座の創設と前後して、人類学のための学術雑誌『L'Homme(人間)』が、彼の呼びかけのもと、言語学者バンヴェニストや先史学者ルロワ=グーラン、さらに地理学者のピエール・グルーらを編集同人に加えて発刊される。それまではフランスに存在しなかった、大英帝国の『王立人類学協会雑誌』、『マン』誌、アメリカ合衆国人類学会の学会誌『アメリカン・アンスロポロジスト』のような人類学専門誌の創刊により、前述の社会人類学講座と合わせて、フランスにおける人類学研究の拠点のひとつの軸が形成され、彼も自身の研究を勧めるとともに、この研究グループに指導的立場として関わっていくことになる。
※この「『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959」の解説は、「クロード・レヴィ=ストロース」の解説の一部です。
「『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959」を含む「クロード・レヴィ=ストロース」の記事については、「クロード・レヴィ=ストロース」の概要を参照ください。
- 『親族の基本構造』の発表から社会人類学講座の創設 1950-1959のページへのリンク