『夢遊裁判』
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1991年(平成3年)2月、ノンフィクション作家の小林道雄は、互いの親類の結婚により縁続きとなる者から、甥が熱心に支援しているというみどり荘事件の資料を受け取った。この甥は、輿掛の自衛隊時代の銃剣道部の先輩で、自衛隊退職後は東亜国内航空の整備士として羽田整備工場に勤務していた。彼は、輿掛の逮捕当時、警察からの電話で自衛隊時代の様子を聞かれて輿掛が自衛隊を退職することになった飲酒運転事故のことを話したが、輿掛をよく知る彼は、輿掛が殺人事件の被疑者となっていることについては「彼は絶対にそんなことをする人間ではない。何かの間違いではないか」という話をしていた。その後、控訴審の審理が始まってから、弁護団は輿掛から「T警部補に、自衛隊時代の先輩にも話を聞いたが輿掛は酔っ払うと分からなくなると言っていたと追及された」という話を聞き、安東弁護士が彼に確認の電話を入れた。彼は、自分の話の一部が切り取られ、言っていないことを捏造されて輿掛の追及に利用されたことに憤り、以後、輿掛の無実を信じて積極的に活動していた。 直接彼から事件と裁判の詳細を聞き興味を持った小林は、大分で弁護団と会い、控訴審第7回公判以降の裁判をたびたび傍聴し、輿掛とも面会するなど取材を重ねた。弁護団は、輿掛の逮捕前後のマスコミの報道姿勢に対する不信感からジャーナリストの肩書を持つ小林を警戒感をもって迎えたが、丁寧な取材を通じて積み上げた事実を基に判断しようとする小林の取材手法に触れる中で徐々に信頼関係が形成されていった。一方の小林は、初めて会ったときの自然体の対応や庶民的な飲み屋に通う姿から、初対面で弁護団に好印象を持ったと記している。それでも小林は、当初、事件については予断を持つまいと努めていたが、弁護団から渡された一審判決を読んで、少なくとも刑事裁判の大原則である「疑わしきは被告人の利益に」に反すると感じ、また、取材を通じて輿掛の無実を信じるようになっていった。 1991年(平成3年)10月、小林は月刊誌『現代』誌上で「女子大生暴行殺人事件-ある『夢遊裁判』の記録」を発表し、事件の問題点を世に問うた。この反響は大きく、みどり荘事件は社会的な注目を集めるようになっていった。その後、小林は、後述するDNA鑑定の鑑定結果を待っていた控訴審第17回公判ころまでをまとめた『夢遊裁判 ―なぜ「自白」したのか―』を1993年(平成5年)6月に出版し、1996年(平成8年)12月には裁判終了後までの内容を大幅に加筆・改題したものが『<冤罪>のつくり方 ―大分・女子短大生殺人事件―』として文庫化された。
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