『マイ・フェア・レディ』
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「オードリー・ヘプバーン」の記事における「『マイ・フェア・レディ』」の解説
1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌(en:Soundstage)で絶賛した。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザ・ドゥーリトルを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、製作のジャック・ワーナーがアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った。ジャック・ワーナーは1700万ドルというワーナー映画史上最大の制作費を回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った。しかしジャック・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラーに役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた。 ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。 映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるということが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている。 ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている。キャサリン・ヘプバーンはすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている。ジュリー・アンドリュースや共演者レックス・ハリソンもヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようという運動まで起こっているが、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『メリー・ポピンズ』でのジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した。 このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた。
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