『マイマイ新子と千年の魔法』から『この世界の片隅に』へ
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「マイマイ新子と千年の魔法」の記事における「『マイマイ新子と千年の魔法』から『この世界の片隅に』へ」の解説
主人公・新子の母親の長子は29歳。舞台は、昭和30年代の山口県防府市。片渕監督は、そこからわずか10年遡れば、戦争中で、長子は子供(新子)を身ごもる中で大変であっただろうと考えていた。その頃、映画の資料で協力してもらった防府市の関係者とイベントで一緒になった際、その人が持っていた『夕凪の街 桜の国』のクリアファイルがきっかけで、こうの史代の『この世界の片隅に』を知ることとなった。 舞台は広島。山口から地続きの隣の県で10年しか差がなく、長子とすずは一歳違いでキャラも似ている。読み始めて、すぐに引き込まれ、生活のディテールを表現する点など自身と同じ作品への姿勢に共通するところを感じ、アニメ化を決意する。企画は、細田守の才能を見出し『時をかける少女』のアニメ化を細田に持ちかけて実現させ、渡辺信一郎の『坂道のアポロン』や、今敏の劇場作品をいくつも手がけた、丸山正雄が両作品とも務めた。 当初、丸山は本作のテレビアニメ化を考えていたが、2010年10月に舞台となった防府市で『マイマイ新子と千年の魔法』の野外上映会が開催され、地元だけでなく全国から1,000人あまりの人が集まった。まるで「村祭り」のようにスクリーンに集った熱心な人たちを見て、丸山はテレビアニメよりもハードルのずっと高い劇場アニメ化の企画を決断した。そして、版権元の双葉社に映像化の許可を求めて連絡するが、既にテレビドラマ化の決定が下されていた。しかし、双葉社の担当は『マイマイ新子と千年の魔法』の監督であると知ると、それならばと、ドラマ化とは分けて考えることにして、アニメ化については「是非」こちらへ預けたい、と社内を調整してくれたという。 丸山は映画制作を成立させるべく多くの会社と交渉をしていったが、遅々として進まなかった。困った丸山は、2013年1月頃、多くのアニメ作品を手がける真木太郎に参加を依頼し、真木は前作『マイマイ新子と千年の魔法』のDVDを観た。驚愕し尋常でない感動をした真木は、苦労を背負い込むことになってもプロデューサーを引き受ける、と決意を固めたという。 しかし、配給の打診は進展せず、真木はクラウドファンディングを試みることになった。このアニメはファンタジー、魔法、ロボットのようなアニメらしい特徴がないが、ファンとなった人たちは、片渕監督を押し上げたいという匂いを感じてくれ、クラウドファンディングで支援してくれたという。クラウドファンディングは目標を大きく上回り、ほぼ倍の3900万円を記録し、東京テアトルを配給会社とする製作委員会を組織でき、映画『この世界の片隅に』は、ついに公開へ向けて進むことができるようになった。
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