「野蛮のナポレオン」の死
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「チカマウガ戦争」の記事における「「野蛮のナポレオン」の死」の解説
北部での勝利の報せに刺激されたドラッギング・カヌーは、北部でブルージャケットやリトルタートルがやったように、近くの大きな部族を尋ねてインディアンを束ねるための行動に移った。マスコギー族やチョクトー族は応じたが、西テネシーのチカソー族は拒否した。ドラッギング・カヌーが帰還した日は、ザ・グラスとタートル・アットホームがケンタッキーのカンバーランドで開拓者を襲って帰還した日と重なり、ルックアウト・マウンテン集落で徹夜の祝が催され、栄誉を称えてイーグル・ダンスが披露された。 翌朝、1792年3月1日、ドラッギング・カヌーは死んだ。栄誉の葬列がランニング・ウォーターに彼の体を運び、そこで埋葬された。ドラッギング・カヌーの死の時まで、チカマウガ・チェロキー族の抵抗は開拓者からも、チェロキー族の他の集団からも嫌々ながらの尊敬を得ていた。翌年にウスタナリ集落で開催されたアッパー・チェロキー族の通常委員会の席で、ブラック・フォックスによって追悼された。 ドラッギング・カヌーの後継者はジョン・ワッツとなり、他にブラッディ・フェローやダブルヘッドと共に、ドラッギング・カヌーの政策であったインディアン同盟を継続した。これにはマギリブレーと同意した小要塞を作って戦士達の拠点にする計画も含まれていた。ワッツは、同盟マスコギー族やペンサコーラにいるスペイン領西フロリダ知事のアルトゥーロ・オニールと連携するために、作戦基地をウィルスタウンに移した。当時のインディアン監察官ジョン・マクドナルドは、スペインの補給線に近いターキータウンに、助手のダニエル・ロスやその家族共々移った。 1792年9月、ワッツはチェロキーとマスコギーの協同で騎馬の分隊を含む部隊を組織し、カンバーランド地方に大規模な作戦を展開した。これは3つの部隊により構成された。ターロンテスキーはケンタッキーの道路を、ミドル・ストライカーはウォルトンの道路を、ワッツ自身が280名のチカマウガ、ショーニーおよびマスコギーの戦士と騎兵からなる主部隊を率いて、ブキャナンズ・ステーションとして知られるカンバーランドの開拓地を襲うものだった。この作戦でマスコギーのタロティスキーとドラッギング・カヌーの弟リトルオウルが戦死した。その報復のため、ベンジ、ダブルヘッドおよびその弟のパンプキン・ボーイが南西ケンタッキーを襲い、その中で殺したばかりの敵兵を食べるということがあった。一方、マスコギー族はカンバーランドの攻撃を、規模も頻度も拡大して行った。 1793年、ショーニー族の代表が、北方でセントクレアの軍隊に加わったチカソー族を罰するために、マスコギー族とチョクトー族を訪問する途中でウスタナリ集落に立ち寄った後、ワッツは当時の南西部領土首都のノックスビルへ外交使節を送り、ウィリアム・ブラウント知事と休戦条件を話し合わせた。しかし、その代表団が首都に到着する前に民兵に襲われ、ハンギング・モーが負傷し、その妻や娘などが殺された。 ワッツはその地域ではこれまでの最大となる1,000名以上の部隊を組織し、ホルストンを襲い、ノックスビルへの攻撃を目指した。その途中で、チェロキー族の指導者達が協議を始め、ノックスビルの男性のみを殺害するか、全ての住人を殺害すべきかが議論になった。ジェイムズ・バンは男性のみ、ダブルヘッドは全員を主張した。更に進んで、部隊はキャベッツ・ステーションという小さな開拓地に来た。その場所を包囲した後、ベンジが住人と交渉し、降伏すれば命を救うということになった。しかし、開拓者達が徒歩で出てくると、ダブルヘッドの部隊が彼らを殺し始め、ベンジが止めても聞かなかった。この時ワッツが中に入って一人の少年を救い、バンに預けた。しかし、議論が白熱する中で、ダブルヘッドは少年を捕まえて殺した。このことで、ダブルヘッドは「ベビーキラー」と呼ばれるようになった。このことが19世紀初めのチェロキー族の政策を巡る長い不和の始まりとなり、1807年にバンの命令でダブルヘッドが死ぬまで続いた。この時もチェロキー族の間で熱心な議論が交わされ、結果は部隊が分裂して南に戻ることになった。セビアが反撃して、ウスタナリ集落を抑えた。このときは斥候隊との戦闘以外は何も起こらなかった。
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